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差異とは?/ スタッフィ

[ 139] 「差異」の差異 ドゥルーズとデリダ
[引用サイト]  http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/thigaki.htm

ドゥルーズとデリダとのあいだに差異線を引いてみたい。この両者には、60年代という時代をともに生き、それぞれの仕方で西洋哲学の伝統に忠実な道筋を辿りながら、そのロジックを意図的にひっくり返していくという点で、共通項がたくさんある。「差異」という、現代思想を語る上であまりに平凡でありふれた、だけれどもその内実や射程がけっしてクリアに明らかにされているとはいいがたい術語も、単純に考えれば、そうした共通項のひとつだろう。
しかし同時に、この両者の思想の内容は、水と油のように背反している。ドゥルーズはデリダのテクストを正面から論じることはなかったし、デリダにとってドゥルーズはいつまでも了解不能な存在にとどまるだろう。地理的にも、時代的にも、そして知的環境においても、あれほど近くに位置しながら、この両者の交錯を提示しようとするのは難しい。60年代に原理的な著作をあらわし、その後ともに哲学のスタイルや語り方そのものを崩し去るように組み替えつづけ、ある意味で左翼的な政治性に加担する傾向をあらわにする点でもパラレルな存在でありながらも、この両者の軌跡は、実際にはほとんどすれ違うことはない。なぜか。
私はこの問題を、最終的には、差異と<無限>という概念との繋がりにおいて、すなわち、かなり広域の哲学史的射程を背景に想定する仕方で考えてみたい。つまり、ドゥルーズやデリダの思考の原理性において、その方向性の対比を浮き彫りにさせるという方法をとって論じてみたい(ようするに言説のスタイルや政治的な嗜好に両者の思想を解消しながら語るのではなく、両者の理論そのものを捉えてみたいのである。だからここでは、デリダについてもドゥルーズについても、さまざま意味で派手派手しさを増す70年代以降ではない、60年代の著作を中心に考察を進めてみる)。こうした試みは、デリダとドゥルーズを巡る、それなりに可能なスコラ的詳細さをもった議論に入る<手前>で、この二つの思考の展開可能性を見いだすことにつながるだろう。この二つの思考は、控えめにいっても現在われわれにとって可能な物事の考え方の、二つの代表的なケースなのではないか。そうであるならば、なによりもまず、それらの思考が論じている事態そのものの差異を明確にすることが必要とされるのではないか。その際、デリダとドゥルーズのどちらが正しいのか、という問いはまったく不毛であるだろう(この問いは、結局のところしばしば趣味の問題にしか落ち着かないものにもみえる)。問題は、この二つの思考がわれわれに差しだしてくる往き道をクリアに設定することではないか。この小論考が、そうした方向での提示に少しでも資する部分があればとおもう。
両者ともに、経緯は異なっているとはいえ、「差異」という術語を前面に押しだしながら考察を展開する点では共通する。「差異」とは、なによりも「同一性」に対するアンチテーゼとして意義をもつ術語であるにちがいない。そして「同一性」や、「同一的なもの」に支えられた「表象」をデリダやドゥルーズが批判するのは、伝統的な思考が、こうしたかぎりでの「表象」を媒介として展開されてきたからにほかならない。「伝統的な」という形容詞の射程が、17世紀以来であるのか、ギリシャ以来であるのか、これはいくつかの場面で揺れ動くだろう。しかし「差異」を論じることが、従来の思考に対する批判や突破口としての役割をもち、さらには自身の積極的な理論形成の中心になっているという事情は、両者においてほとんどかわらない。
では、なぜ「同一性」や「表象」ではダメなのか。この点に関しても、両者はほぼ同様な議論の進め方をしているように読める。そこでの議論は「真理」という審級そのものに関わるだろう。「同一性」や「表象」を掲げる思考は、「真理」という場面を、それら自身の理念的展開がはらむある種のテロスとして保っている。それは哲学という営み自身が、どこかに書き込まれ、刷り込まれた解答を、何らかの仕方で見いだしていくものであるという発想と連関してもいるだろう。たとえ弁証法に依拠しても、純粋直観に依拠しても、還元に依拠しても、「表象」から逃れられない思考は、問いに決着をつけてくれるひとつの審級を想定してしまう。これに対して、存在するのは「差異」でしかない、と述べる思考の戦略は、「表象」を生みだす働きの方が、つまりどこか不調和で齟齬をきたし、それゆえにある決定的な収斂点をもたない力の働きの方が、すべてに先行していることを明らかにする。そこで「表象」とは、差異という働きによって結果として生みだされるものでしかない。だから「表象」は、なにかを論じるための根拠や拠点としては機能しなくなる。
こうした共通性は、両者がともに「差異」を論じる文脈を、<私>という定点や<現在>という基準点を批判していく議論に絡ませることからも理解できる。「同一性」や「表象」、そしてそのテロスとしての「真理」への批判は、きまってそれが定位される<私>や<現在>の解体へと向かっていく。デリダもドゥルーズも、自己同一的な中心としての<私>とは差異的な力の効果でしかなく、差異の働き自身はこうした自己同一性への回収から免れることをいつも強調する。また<生ける現在>なるものも、両者の論理構成において、二次的な役割しか演じえない。ドゥルーズは、『差異と反復』において、第一の時間の位相(第一の受動的綜合)として<生ける現在>を設定しはするが、有機的な統合性/身体の豊かな調和を指示するこの位相は、非−有機的な時間としての第三の時間によって乗り越えられていく仕組みになっている。未来の時間である第三の時間が、現在のもつ根拠としての性格を、その調和性に裂け目を入れるかたちで崩していくのである。デリダにおいては、<生ける現在>の拒絶は、はじめから明らかだろう。デリダが強調するのは、現在であることにはらまれる<遅れ>の方である。事後性(après-coup)という、直接的にはフロイトに由来する(「フロイトとエクリチュールの舞台」『エクリチュールと差異』)概念が、デリダの時間の議論ではなによりも中心をなしている。現在とは、現在として捉えられたときに、すでに遅れをはらんでいる。現在が現在であることを述べるためには、そこに遅れとしてのある種の隙間を(差異を)見てとり、そうした隙間の側から語らなければならない。私たちが現在を生きるのは、実際にこうした遅れを被って、事後的にそれを現在として生きるからなのである。結局、ドゥルーズでもデリダでも、拠点となるような<私>や、それが定位される<現在>とは、その存立そのものが根拠としての役割を保ちえなくなっている。
こうした方向性を設定しておいて、さらに両者の共通点を列挙することは容易であるだろう。差異への着目は、『差異と反復』の序文で提示されているように、まさに彼らの時代そのものを特徴づけている。ハイデガーの存在論的差異、ソシュール以来の記号論が導入してきた示差的な記号の存在様態、現代芸術や現代文学における差異と反復という問題系。それらへの個々の評価はともあれ、こうしたコンテクストは、両者の記述に深く影を落としている。ニーチェ、ブランショ、アルトー、カフカ、ジョイスなど、言及されるテクストも大きくかさなりあう。また数々のテーマ系も共有する。『差異と反復』の本文冒頭の数ページを見るだけでも、分身、交換不可能なもの、等価性を設定できない贈与、再開不可能性なもののパラドキシカルな再開である祝祭、つまりは普遍や一般に解消しえない特異なもの(singulier)の称揚、これらのテーマがきらびやかに展開されるのだが、それらはそのままデリダの主題であるといってもさほどの違和感はない。オリジナルなものが失われ、真理という定点を欠く現場で何が語りうるのかという方向性において、両者の言説が、すれすれまでに近接していることは認めなければならない。しかしながら、この両者の言説は、ある地点で決定的に噛みあわないだろう。それは何を意味するのか。
すでに見てきたように、差異を語る両者の議論は、「同一性」や「表象」への批判として同様の方向性をもつものであった。それゆえこの両者において、差異とは、「表象」に回収できない異様な何かとしてしか記述しえない。だから差異とは、正当な意味で「怪物」(monstre)であり、「亡霊」(『声と現象』での記述にそくするならば、エクリチュールの現場ですでに死んでいる<私>)である。
しかし問題はこの先にある。ドゥルーズ的な「表象」を食いちぎる「怪物」と、デリダ的な「表象」につきまといつづける「亡霊」とは、実のところ完全に別物である。この両者は、ともども「表象」の破綻を引き受けるが、その引き受け方がまったく逆なのである。
それはどのように提示されるのか。ひとつ明快な解答は、両者の哲学史的背景に言及することであるだろう。ドゥルーズの差異概念は、ベルクソンの議論の吟味からとりだされている。つまりこの概念は、流れを強調する生の哲学が、固定された定点に自らを位置づけることを拒絶しながら、それらを生みだす生成の力に着目したことを展開させたものである。そこでドゥルーズが見いだすベルクソンの差異概念のポイントは、何をおいても、それが流れの内的な力とその現実化としての差異の働きを提示することである。だから、このラインでの差異の探求は、弁証法的な統合・矛盾・他性という概念に行き着くことなく、生成変化としての流れを記述しうることになる(cf.「ベルクソンにおける差異の概念」)。そして、このように展開されるドゥルーズの差異の概念には、流れにはらまれている微小な差異をきりわける微分(différentiel)と、流れにはらまれる差異が自己展開を遂げて姿をあらわす分化(différenciation)という二つの主題とが、緊密に連関する。ドゥルーズの差異とは、『差異と反復』でのdifférent/ciation(微分/分化)という両義性を含ませた表記によってこそ、十分に表現しうるものなのである。ドゥルーズにおいて差異とは、未決定的な見えない力(潜在性)を示す微分という装置と、未決定的な力が現実化して姿を現す分化において描かれうるのである。未分化な質料として力をはらむ卵細胞が、さまざまな細胞や形態へと多様に生成していく光景が、ドゥルーズの差異概念の根底にある。
他方、デリダの議論は、系譜的な事情からしてもこれと真っ向から対立する。デリダは、ベルクソンを中心とする生の哲学に対して(ある意味でそれを現象学的に受け継いだメルロ=ポンティに対しても)ほとんど積極的な評価を下すことはない。デリダが自己の議論を鍛え上げる素材は、それ自身生の哲学の素朴さを批判するフッサールの現象学、そして(反メルロ=ポンティ的でもある――とりわけテクストの文言への固執という意味において――)その厳密なまでの<読解>である。さらに、こうしたデリダの現象学の読解には、絶対的な否定性や死の審級に言及することにおいて、随所にヘーゲルの影が見てとれる(『声と現象』第七章、「差延」論文、『フッサール現象学における発生の問題』序章)。デリダは結局のところ、現象学の理念もヘーゲルの絶対知の構想も解体するのだが、それはあくまでも、それらのテクストの読解を経ることによりなされている。そして、そこで提示されていくデリダの差異(つまりは、待機化(temporisation)と間隔化(espacement)として定式化される差延(différance))とは、自己における自己ならざるものの必然的な介在、自己ならざるものへのあらかじめの回付、という他性や否定性のニュアンスが強く入り込んでいる。迂回させること、汚染させること、他へと差し向けること。デリダにおける差異概念は、同なるものが、つねに同ではない他を含みこみ、そこを回付することによってしか同が成立しえないというロジックを巡りつづける。だからそこで、差異とは、際限なく位置がずらされつづける彷徨のような言説の形態に到るだろう。
p.248)。ここで<理念>や「学ぶこと」とは、ドゥルーズの存在論の中心的装置である、潜在的な多様体と連関した術語である。問題は、こうした多様体の存立が、「表象」という装置を内から崩すような役割を果たしていることにあるだろう。それは生成の力が、現在という定点を溢れかえるように吹き飛ばす場面を提示すること、つまり現在(見えるもの=現実性)が、自身が<内>に含み込む圧倒的な包括力(見えないもの=潜在性)によって、弾け飛ぶように崩壊する姿をあらわにするものである。デリダはこのような仕方での、生成の直接的な現前など認めることはないはずだ。
これらをさしあたり、つぎのようにまとめることは可能だろう。すなわち「表象」の批判において、デリダが見いだしていたものは<現前それ自身の不在と外への回付の構造>である。それに対し、ドゥルーズがとりだすことは、むしろ<溢れ変えるような内の力が現前の場面に充ちること>と描かれうる事態なのである。ドゥルーズが哲学に求めるものは、概念の新たな創造(『哲学とは何か』)にほかならない。生成の奔出力を受けて、哲学者はつぎつぎと新たな言葉を破天荒に創造すればよい。だがデリダにとって、思考そのものが可能になるのは古い名(vieux nom)によってでしかない(『声と現象』)。何かを語りうるのは、すでに廃れ時代遅れになり、それ自身は異様な響きをもたらすような古語を復活させることによってでしかないのである。
デリダとドゥルーズのあいだに横たわる差異線は、いいかえれば「差異」の差異は、ここでさまざまなヴァリアントにおいて提出しうるだろう。<不可能>なもののリアリティー/<過剰な実在>を生産し続けるリアリティー、<外>の侵入と/溢れ出す<内>、<取り戻しえない過去>へのノスタルジー/<予見不可能な未来>への無根拠な信頼。それはさらに(60年代以降の展開も見据えるかたちで)、不在の法および不在の超越(拒絶しがたい否定神学的傾向)/法の不在および超越の不在(徹底した唯物論性)、他への正義/超越項なき友愛、これらの対比へと結びつけられうるだろう。これらに関しては、とりわけ両者のカフカの読解を例としてとりあげることは示唆的であるかもしれない。『掟の門前』を巡る、息の詰まるような到達しえない待機と彷徨の読解。それに対する、ポジティヴに産出をつづけていく文学機械の装置としてのカフカの諸作品の描出。
しかし、列挙すればきりがないこれらの差異線については以上にとどめよう。ここから先は、これらの対比を生みだす原理を明らかにすること、そしてそのなかで、この「差異」の差異がもつ意味を思考すること、これがなされるべきである。
そこで、無限という主題が重要なものにおもえてくる。デリダもドゥルーズも、無限というテーマを、議論を詰める核心的な部分でもちだしてくるからである。
その理由を見いだすことはさして困難ではない。無限という主題とは、17世紀以来の近代哲学が、それを巡って自己展開を遂げてきた問題系のひとつである。そして、有限者と無限者とのパラドキシカルな関係は、フーコーの言説(『言葉と物』第九章)を参照するまでもなく、近代から現代へという哲学のシーンの展開のなかで、その駆動力のような役割を演じてもいる。現代を代表するドゥルーズやデリダの思考が、こうした問題系と関わらないはずもない。「表象」とは<私>がそれを生きるかぎり有限である。しかし流れる時間、存在する世界、語るべき事象は無限である。「表象」が捉え尽くそうとする無限の方は、「表象」には収まるはずもない。だから無限を思考することは、必然的に「表象」を突破させるような論理に繋がるだろう。すると「表象」を解体する差異の議論も、このような無限の議論と原理的な関わりをもつのではないか。そしてその関わりを見定めることによって、ここまで提示してきた「差異」の差異が、より明瞭になりはしないだろうか。
先にも述べたようにデリダは、無限にかかわるこうした問題系について、積極的無限を論じる点でヘーゲルの功績を重視する。そこでは無限を巡るヘーゲルのカント批判が、デリダ自身のフッサール批判に重なりあうと主張されもする。デリダは、ヘーゲルもまたそこに足をとられているとされる<現前の形而上学>の向こう側で、なおかつヘーゲルのカント批判をフッサールに適応するようにして、「無限な差延」を見いだしていく。では、そのような「無限の差延」においてデリダがとりだす事柄とはなにか。まさにそれは<生ける現在>である<生>が、無限に引き裂かれることによって、すでに深く<死>にかかわっているという事情である。「ただ、私の死への連関こそが、現前の無限の差延を現れさせうるのである。それと同時に、私の死へのこの関係は、これを積極的無限のイデア性に対比するならば、有限な経験性の付帯性になる。無限な差延の現れは、それ自身有限である」(ibid.,p.114)。
<無限の差延が有限であること>、差延そのものである錯綜を提示するこの言明は、さしあたり差延が、有限と無限という区分では語りえないパラドックスを内包する事態であることを明らかにする。しかしこの錯綜が指し示すものは、あくまでも生とは別の場面への横滑りである。パラドックスの内包が向かうことは、その解消というよりも、もともとパラドックスであることの内実を形成するような、死という不在の審級の、生のただなかにおける不可避な機能を提示することなのである。つまりデリダは、ヘーゲルの述べる積極的無限という事情を反転させるかのように、現前における自己を欠いていることの必然性を、差延の錯綜の内容として提示する。「現前の無限の差延」というパラドキシカルな主題は、自己を痕跡としか語りえないような欠落の場面に向かうのである。
他方、ドゥルーズはどうであろうか。『差異と反復』での「表象」批判の論脈において、<無限>というテーマの重要性はうたがいえない。『差異と反復』の第一章で展開される議論では、ヘーゲルとライプニッツが、ともに<無限>という対象を深く思考しぬくことにより「表象」の存立そのものを揺るがしたことが、一定の評価を込めて論じられる。ヘーゲルは無限大、ライプニッツは無限小という対立する方向においてであるが、両者とも、<無限>を導入し「表象」を解体していく議論の先鞭をつけたと記述される。ドゥルーズは、そこで見いだされる「表象」のあり方を、有機的(organique)という言葉をもじったオルジック(orgique)なものと形容する。つまり緊密な連携をもった組織が酔いしれるように軸を失っていくニュアンスを込めて描いていくのである。最終的にドゥルーズは、この二つの思考を、ともに「表象」の枠組みから抜けだせないものとして(その枠内での二つの対照的な事例として)それらを批判し距離をとる。とはいえドゥルーズの考えは、ある意味ではっきりとライプニッツに近い。ドゥルーズは、ヘーゲルの矛盾という思考を批判しながら、逆にライプニッツから見いだした副次的矛盾(vice-diction)や不共可能性(imcompossibilité)の概念に、自身の思考の展開を重ねあわせていく。なによりも、ドゥルーズにとっての差異が、一面において微分という含みをもつことを忘れてはならない。ドゥルーズはライプニッツ的発想を枠組みにおいて批判しながら、未決定的なものが無限の襞に織り込まれているイメージそのものは、確かに利用していくのである。
ここでもデリダとドゥルーズの共通点と相違点とを記述することは困難ではない。彼らは、ヘーゲルとライプニッツという、無限を思考し「表象」を揺るがせる発想を、差異を論じるためのスプリングボードのように見いだしていく。そして、それと同時に彼らの思考の不十分さ(「表象」へのとらわれ)を指摘し、そのアイデアを捉えなおしていくことにより、有限−無限という対立とは別種の語り方を探るのである。しかしもちろん、両者の着眼点はあくまで対照的である。デリダが注視するものは、無限大を論じるヘーゲルであり、そこでの積極的無限の自己への関わり(とそれが提示する否定性)である。ドゥルーズは、無限小を扱うライプニッツを、なによりも思考の素材として重視する。無限が襞に折り畳まれるように潜在する事情をドゥルーズは描きかえしていく(さらに述べれば、カントの位置も興味深い問題を提示するだろう。『声と現象』では、カント的<理念>への批判が現象学批判に繋げられるが、『差異と反復』では、カントの<理念>という装置は、潜在性の存在論を描きだすことにとって――ドゥルーズ流の超越論的経験論の構想において――奇妙に高い位置におかれつづけている。)。
この方向性の違いは決定的である。ドゥルーズは、無限の現前というパラドキシカルな事情を、それ自身パラドックスであるような自己における他の組み込みによって論じていこうとはしない。無限が「表象」にたたき込まれることは不可能なことである。だからドゥルーズも、デリダといささか類似したニュアンスで、こうしたあり方を「解けない問い」と語りもするだろう。しかしドゥルーズは、こうした「解けない問い」をあくまでも肯定的に捉えていく。「解けないこと」そのものが肯定されなければならないのである。ドゥルーズの差異の思考は、むしろ否定性や他性を設定しないような仕方において、つまり否定も死も欠落も、肯定的な生成の充溢が振りまく影にすぎないようなものと論じることによって、有限−無限という配置を越えていく。それがドゥルーズにとって、強度である生成を語る仕方なのだともいえる。「表象」は解体されるが、それは「表象」が包括しえない無限を、内的な推進力として把握することである。だからそこで無限は、「表象」の細部に蠢くように宿りながら、溢れかえるように「表象」を崩し去るだろう。では、このような場面を、無限と有限のという問題系に引き戻すのであれば、どのように描けるのか。
それを具体的に論じるのは、『フーコー』の最終章、有限性と無限性の配置を巡り、未来の形成を思考していく部分だろう。そこでドゥルーズは、ニーチェの言葉を借りながら、人間における生の解放を描きだし、無限への上昇でもない、有限にとどまるのでもない「無際限の有限」(fini-illimité)としての<超襞>について論じていく。無限を含意するこうした事態を、ドゥルーズは異様に無機質的なイメージを援用しながら提示する(それは、『差異と反復』における順序の時間としての第三の時間、『シネマ』における<結晶>としての<時間−イマージュ>の記述と直接結びつくだろう)。(生命体を構成する)炭素ではない(コンピューターや人工生命をおもわせる)シリコンの力、有機体ではない遺伝子的な要素の力、シニフィアンではない非文法性の力。つまりは、無際限の組み合わせによって無限の生成の力を発揮する、いたって唯物的に描かれる無機的なものの開在性がそこで記述されていくのである。ドゥルーズはこの意味で、(19世紀的な)生物学の(20世紀的で今世紀的な)分子生物学への展開をまさに肯定的に論じていく。それは有機的な生ける連関を解体し、神秘的な生命の力に言及することを退けながらも、単純な反復としての物理的なものへと回帰するのではない、唯物的な生命の力を見いだしていくような理路をたどるものである。それは無限に開かれた環境と、無限に進んでいく時間とを、連携するように自らの装置に組み込み、予見不可能に自らの姿を変容させ進化していく生命の産出力の肯定である。無限のパラドックスとは、この水準ではむしろ、「解けない問い」をまえに立ち止まるのではなく、それでも新たなかたちを産出し、先へ進むことの肯定的な駆動力として利用されている。ようするにドゥルーズも、「表象」の<生ける>根拠性を無限の含意によって破壊するのであるが、そこで見いだされるものは<死>の介在ではない。むしろある種の<なまなましさ(生々しさ)>を想定させるような、うごめく物質の力、その剥きだしの露呈とも述べるべきものなのである。
ここで、デリダとドゥルーズの差異が明確になるだろう。両者ともに無限を<無限と有限>という対比とは別種の仕方で思考し、<生ける現在>にかかわる「表象」の磁場から逃れるが、逃れ去る方向性がまったく異なっているのである。スローガン的にいえば、デリダでは<生>ではない<死>の場面が、<生>における<死>のあらかじめの含意が重要である。エクリチュールとは、私の<生>が構成したものではないが、私の<生>を語るときにはすでにそこにある何かである。それは<私>にとって、到達不可能で知られえないが、そこで機能してしまう空虚である。ドゥルーズでは、<生>はむしろ「表象」という枠組みをはずされた、その剥きだしの姿で提示される。それは調和性をおもわせる<生(生ける)>という事態であるというよりは、齟齬や破綻を引き受けながら<なまなましく(生々しく)>うごめく物質の姿である。生命がパラドックスに直面して、素早く自己のDNAを組み替え、形態も機能もハイブリッドに(ある種のブリコラージュのように)変貌させていく生命の力がそこでの有効なモデルである。他性や絶対的な否定を<外>に含意することによってきわだつリアリティーと、剥きだしの肯定性によって<内>から溢れる強度のリアリティー、この差異の所在が問われている。
問題は、この二つの語り方が、現時点でのわれわれの思考を規定する、二つの主題系に届き、なおかつそれを支える論理として機能しえていること、これを考えることではないだろうか。デリダの戦略は、まずはエクリチュールとしてのテクストの錯綜に向けられながら、後年とりわけ他者の他性そのものに、そして到達不可能な他に向けられた正義という論脈に、法や宗教的なものの原論的な位相に強く結びついていく。それは、デリダの原理的な視線が非自己による自己の介在に向けられている以上、一貫した議論の進展であるだろう。他方ドゥルーズは、とりわけ晩年の『哲学とは何か』で、カオス、部分観測者、オートポイエーシスなどの主題にあからさまな興味を示し、自然的生命の能産力を論じることにますます接近していく。確かにドゥルーズも言語について論じてはいるが、それはあくまでも、自然が秩序を産出する創発的作用のひとつの位相としての言語である。ドゥルーズは、世界の解釈の無際限さのなかに入り込むことはない。
こうした展開をいささか乱暴にまとめるならば、つぎのようにはいえないだろうか。すなわち、デリダとドゥルーズのあいだに引かれる差異線とは、文化(人為)と自然(産出力)との差異線を、新たなかたちで定式化することに結びつくのではないか。デリダが論じていく方向は、エクリチュール・他者・正義(宗教)と、明らかに文化的な事態を、ある種の仕方ですくいとる方向性を示している。もちろんそれは、解釈の錯綜のなかを彷徨いつづけ、到達しえない他者の他性を反転させて描かれていく文化(人為)、根拠の不在としてしかその内実が提示されない文化(人為)である。人為的といっても、もちろん主体も意識も意志も(「人間」も)論じえないところで、しかし自然に対し無を穿ち、そこで露呈される不在の根源性を軸に、言語的力能や他者の力を、自然とは別種の秩序として見いだしていく可能性のことである。これに対し、ドゥルーズの示す方向性は、むしろ人間という視点にとって破天荒でもあるような、自然的能産力の放埒な力そのものを引きだし、人間もそこへと解消していくものである。そこで描かれる自然とははじめから、機械的反復のもとに存する自然、予見不可能な自然ではない。むしろ進化がそうであるように、剥きだしの生命力であるような未決定性を突き進むカオスの自然と、その力能の率直な肯定であるだろう。理性に依拠しない、不在をバネにした<文化>の力と、非創造的反復ではない、自己産出し自己創出する<自然>の力。「表象」を無限の力で転覆したのちに提示されてくるものは、これら二つの像である。この二者を安易にクロスさせたり調和させたりすることなく、文化と自然という差異線の新しいかたちとして受け止めること。そしてそれが根拠なき今において与える示唆と拡がりとを考えること。デリダとドゥルーズを読むという営為は、こうした仕方でこそ引き継がれていくべきではないか。

 

[ 140] Amazon.co.jp: 差異について: ジル ドゥルーズ, Gilles Deleuze, 平井 啓之: 本
[引用サイト]  http://www.amazon.co.jp/a・Rc?°a?≪a??a??a?|-a?,a?≪-a??a?\a?≪a??a?o/dp/479175817X

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「真の唯物論者」ベルクソンとともに、現代思想の核心概念「差異」を正面から論じる、ドゥルーズ哲学の出発点にして、その全軌跡が凝縮された驚くべき論考。ベルクソンの全体像を論じた稀覯の初期論考を併録。
「真の唯物論者」ベルクソンとともに、現代思想の核心概念「差異」を正面から論じる、ドゥルーズ哲学の原点にして、その全軌跡が凝縮された論考。ベルクソンの全体像を論じる初期論考を併録した新装版。
ドゥルーズの感動が伝わる。ドゥルーズがベルグソンを読み、心を動かされた感動が本書にはある気がする。読んでいて、もちろん、ドゥルーズの著作を何冊か読んでドゥルーズに興味をもったものとして、何か親近感が湧く。ベルグソンは人格者としても名が知れているが、人を引きつける魅力もドゥルーズに伝播しているような気がする。
文字のスペースが広く、内容量はページ数よりさらに低く感じるだろう。買って、読む本という気はしないが、難しい文体に頭が疲れたとき読むには最適かと思われます。

宇野邦一氏の解説によると、著者は映画論の講義で「ベルクソンほど唯物論的な思想家はいない」と語った。これはエンゲルス『自然の弁証法』の「運動の不滅性」、「物質そのものは知覚も認識も出来ない」等の主張と関係付けられなくもないが、宇野氏は本書の内容に沿って、ベルクソンが概念と事物それ自体のニュアンスとの一致を目指した点に、唯物論的なものを見出す(「フォイエルバッハの偉業は、否定の否定に対し、自らを根拠とする感性的肯定を対置したことである」マルクス)。これをドゥンス=スコトゥスの‘此(これ)性’と比較したり(詳しくは『中世思想原典集成18』参照)、スコトゥスの抽象的な‘存在の一義性’と、ベルクソンが、多様な色を集束した「純粋の白色」に喩えた‘具体的普遍’と対比するのも、ドゥルーズ哲学の理解の上で必要だろう(スコトゥスとベルクソンの共通性については八木雄二『中世哲学への招待』参照)。概念を一個の事物とする考えは、『千のプラトー』の概念が比喩でないことの裏書である。またこれはスピノザ論の、数学的構造や論理的可能性ではない、物理的強度としての本質や、必然的かつ自由な‘傾向’としての、ライプニッツのモナドに繋がる。著者はこれを‘開始概念’とし、諸差異を肯定する体系、「開放系の理論」(『記号と事件』)へ向かうことになる。ベルクソンは持続の観念を基礎にしたが、ドゥルーズは『差異と反復』において、ニーチェの‘力’(「空間は力と同義である」)の方を選ぶ。だが彼の思想は基本的にベルクソンの変奏だろう。『意味の論理学』では‘意味’は、ベルクソンの「空間的延長を持たずに伸縮するゴム」といった持続の比喩のように、外延空間上では不可能な「丸い四角」「谷のない山」といった矛盾的‘超存在’とされる。そして「子供が大人に‘なる’(devenir=生成変化)」というベルクソン的観念が、一種の野生化を遂げるのだ。
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