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またまたとは?/ ノーローン

[ 382] またまたインタビュー (内田樹の研究室)
[引用サイト]  http://blog.tatsuru.com/2008/05/09_1356.php

とはいえ、そのようなことを訊く為にわざわざ遠く東国から御影までおいでになったわけであるから、にべもなく「知りません」とは言えない(つい先週、同じPHPの連載のオッファーを遠く東京から来た編集者に向かって「やりません」と五秒で断ったばかりである)。
というのはその前に『歎異抄』を読んでいたからである(朝カルの予習である。私でもたまにはそういう殊勝なことをするのである)。
仮に「悪人になるぞ」と自己決定したとしても、そういう非倫理的な自己決定ができるということ自体、ご本人の人間のつくりが相当歪んでいるということであり、そういう「根本的に歪んだ人間」に自己決定によってなることはできない。
気がついたらいつのまにか悪事を働いていた。悪人になる気はなかったのに、気がつけば極悪非道・・・というのが悪人である。
悪人自身もそのことはわかっているので、自分が悪人である所以をしばしば「自分以外のもののせい」にする。
「親に愛され、友人に恵まれ、同僚から信頼され、弟子たちから敬慕されているので、『こんな善い人』になりました」というような文脈依存的善人をカムアウトするひとに私は会ったことがない。
「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。
「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
私の親の世代などは「しあわせに感謝しよう」なんて言ったものですが、「感謝しよう」って「誰に?」と思ってたボンクラ小僧は勿論私です。ほんと、幸せってなんでしょうね。
日本語はマイクロスリップを余儀なくされている言語なのでしょうか、考えています。ロボットは動詞が先に来る方が反応し良いでしょうね。
人をたすけても、あれでよかったのか、あのまま結局最後まで看取ってやれなかったのならむしろ悪いことをしたのではないかと自省する意識の持ち主が「悪人」ということになる。
>「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
>「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
どうしてこんな私でも赦されて救われるのかという問いは、自分の中の悪が必然にせよ偶然にせよ実現してはじめて生まれるのだと思います。
善悪という人間の思考が作り出す観念を離れ、私たちが既に与えられているものを思い出すために、以下の文章を読み返しました。
筋肉や脂肪などの組成はお金で買った食糧の変形でもあるので、自分の所有する物質だと主張はできても、食物摂取を通じて循環する再生的な宇宙のパーツが、構成と分解を繰り返しながら維持される機能は、平均80年間宇宙がわれわれに無償でレンタルリースしてくれているのである。髪の毛や筋肉や脂肪のそれぞれ果たす機能には、誰もローンを支払っていない。
単純な一文のようでいて、中々難しい文章ですね(ひょっとして、生き残ってきた古典って大概そういうもの?)
ぼくはあまり親鸞さんや浄土真宗を解するものではありませんが、この一文は以下のように解釈していました。
=自分のことを幸せだと思えている人はほうっておいても大丈夫、自分のことを幸せだと思えていない人にこそ、救いのための手助けが必要なのである。
……善人・悪人の定義を含め、恣意にすぎる解釈であるかもしれません。しかし、こう解釈したとき、ぼくは何となく腑に落ちる思いがいたしました。
他人の庭先で、「俺がこんなに不幸なのは、お前が幸せに暮らしているせいだ!」と言って、喚き暴れる悪人。
自分と他人の関係性に着目し、そこに生起する善と悪を比較しながらこういうことが真実である、と親鸞は説いたわけではない。そういう小さな枠を越えた、もっと大きな、生きとし生けるものすべてを照らす光のことを「他」で表現した。これは他者のことではない。自分と他人を含めた人間、動植物、さらに大きな自然界、それらすべての背後にある大きな力の働きのことである。自力を為せば、どんな人でもそれに執着して大きな力を忘れる。光を見失う。そのような悪人だからこそ、自力を捨てたときに他力への道か開ける。このような仏性の目覚めが何よりも尊いのであるから、「いわんや、悪人をや」となるわけである。チェスタトンは「キリスト教徒は世界を逃れて宇宙に入るのであるが、仏教徒は世界からというよりはむしろ宇宙から逃れることを願うのである」と言っている。先生の考えは多分に西欧哲学的で、この言い方を借りればキリスト教に過ぎる。

 

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