いくつとは?/ ノーローン
[ 810] あなたの「腸内年齢」はいくつ? | エキサイトニュース
[引用サイト] http://www.excite.co.jp/News/bit/00091188388166.html
あなたの「腸内年齢」は何歳ですか? そんなの知らないよ〜という方はぜひ一度、『腸年齢チェッカー』で、チェックしてみては? これは今年の7月31日から、カスピ海ヨーグルトオフィシャルサイトに掲載されているもので、いくつかの質問に答えるだけで、あなたの腸年齢を診断してくれるのだ。アンケートは、便・生活習慣・食生活に関する計24項目。腸年齢にくわえて、「超よごれ腸」「ややきれい腸」など5段階に判別された腸の状態を教えてくれる。さらに、便・生活習慣・食事の状態を「腸診断チャート」で表示し、不足項目とヨーグルトの摂取量に関してのアドバイス付きだ。早速私もやってみたところ、実に衝撃的な結果が……。なんと腸年齢49歳(実年齢+19歳)!! 「ややよごれ腸」との診断だ。ガーン……。「これ以上腸の老化が進まないよう、油断は禁物です」とのコメント。うーん、普段の食生活などを振り返ると、確かに反省すべきことがたくさんあるかも。同チェッカーは、理化学研究所バイオリソースセンター室長であり、腸や便のスペシャリストとして知られる辨野義己先生の監修によるもの。辨野先生によれば、「年をとってくると、腸の動きが鈍くなり、腹圧・腹筋が弱くなります。すると、どうしても便秘ぎみになってしまい、悪玉菌が増えて有害物質である腐敗物質が出てきます」ウンチのにおいがきつく、出る量も少ない、排便後いつも残便感があってすっきりしないというのは、腸が老化している証拠らしい。腸年齢の改善方法は、まず食生活をかえること。なかでもヨーグルトは腸内環境を整えるのにもってこいだという。「最新の研究では、乳酸菌の様々な効能が明らかになり、新しい機能を強調した“機能性ヨーグルト”がたくさん出ています」特に「プロバイオティクス」と呼ばれる人の体に有益な働きをする生きた微生物を含むヨーグルトは健康の維持や病気の予防に大きな効果を発揮するそう。辨野先生のオススメ健康法も「1日200gはプロバイオティクスヨーグルトを摂取すること」。ちなみにカスピ海ヨーグルトの乳酸菌「クレモリス菌FC株」もプロバイオティクス乳酸菌であることが分かっている。とにかくこれ以上悪化させてはマズそうな、私の腸年齢。まずは一日200g以上ヨーグルトを食べるところから始めるようと思います。(古屋江美子)・フジッコ(株)「カスピ海ヨーグルト」オフィシャルサイト エキサイトブログユーザーならブックマークレット機能を利用してこのページにトラックバックできます。 |
[ 811] 図書カード:赤いくつ
[引用サイト] http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/card42378.html
人物について:デンマークの国民的文学者。オーデンセの貧しい靴直し屋に生まれ、幼少の頃から父にアラビアンナイトなどの物語を読み聞かされ育った。その父が早くに亡くなったため学校を中退せざるをえず、俳優を志してコペンハーゲンへ行くものの、途中で挫折する。苦しい生活の後、政治家コリンの援助もあり大学を卒業する。国外を遊学し、その際のイタリアでの印象と体験より「即興詩人」を著す。1835年「童話集(お話と物語)」を発表し、以後死ぬまでの四十年で一五〇余編の童話を書いた。グリムと童話文学の始祖として並び称されるが、グリムと違い、創作童話の多さが特徴的である。他の代表作 「絵のない絵本」「わが生涯の物語」(大久保ゆう)「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」 人物について:東京銀座生まれ。家は印刷業を営んでいたが、父が急逝し、また母の再婚がうまく行かず、家業は没落してしまう。そのため親戚を転々とし、多難な少年時代を送った。だが芝居好きの祖母や、学問熱心な伯父、また早稲田大学時代に師事した坪内逍遙や島村抱月など、周囲の人に恵まれ、彼の基礎がはぐくまれていった。大学卒業後の1907(明治40)年早稲田文学社に入り、編集者としてのキャリアを始める。そして読売新聞社を経て、1910(明治43)年冨山房に入社、そこで「新日本」の編集主任として励むかたわら、一方で逍遙の「文芸協会」に参加し、評論あるいは翻訳劇脚本家として活躍する。文芸協会解散後も抱月の芸術座に続いて参加し、しばらく編集者と演劇人の二足のわらじを履いていたが、1915(大正4)年冨山房社長の命を受け、「模範家庭文庫」の担当となる。親交のあった岡本帰一にヴィジュアル面を託し、他人の原稿を編集するうち、児童文芸への意識が高まっていく。やがて自らも文庫の執筆に手を出し、また児童向けの創作や翻訳も意欲的に行った。ちょうどその頃、抱月の死によって芸術座は崩壊し、その騒動に巻き込まれ、事態の収拾に奔走するうち、しぜん演劇界から足が遠のいていったこともそれに拍車をかけることになったのだろう。語ること・魅せること・まとめることを意識した正雄の仕事は一種の創造的編集ともいえ、この時期に成した「世界童話宝玉集」(1919:大正8)、「日本童話宝玉集」(1921:大正10)の完成度は群を抜いている。これらは当時、これまでの「お伽噺」という定義によらず、「童話」を日本で初めて集成したものと広告された。また「世界―」に所収されたメーテルリンクの戯曲「青い鳥」の出来もよく、出版翌年にはこの台本で上演されている。しかし芸術座騒動と増える一方の仕事に、精神的にも疲弊したためか、1922(大正11)年すべてから身を引き、趣味の藤原文芸研究に打ち込むため、京都に移住する。だが翌年に起こった関東大震災がふたたび彼を呼び戻すことになる。新たな一大事典の制作を考えた冨山房社長の要請を受け、正雄は東京へ戻り、1924(大正13)年「日本家庭大百科字彙」責任者につく。そして児童文芸の世界にも再度力をそそいだ。「世界―」以来興味を持っていたアンデルセン童話を独英米の底本から訳し、初めて童話集として出版したのも同年である。またこの頃の創造的編集の粋として、1925(大正14)年から翌年にかけて出版された現代絵本のさきがけとなる「画とお話の本」シリーズも見逃せない。「字彙」は1931(昭和6)年に完結したが、休む暇なく「国民百科大辞典」の出版が企画され、当時としては最大級であったこの大事業を正雄は見事完遂する。1937(昭和12)年には長く離れていた演劇の世界に戻って批評活動に励み、また冨山房でも冨山房百科文庫の企画が始まる。1938(昭和13)年には本人監修の独語底本から再度アンデルセン童話の翻訳に挑戦し、まったくの新訳を出版する。だが日本は次第に戦渦に巻き込まれていき、正雄が携わっていた様々の事業も中絶する。この時期に翻訳した反戦児童文学「デブと針金」は彼の心境を反映しているものである。1945(昭和20)年の終戦後は、様々な文化が復興の力に湧き、正雄も演劇界・児童文芸界双方に尽力する。そしてこれまでの人生のまとめとして、世界の児童文学を比較文化的な視点から体系的にまとめようとする「世界おとぎ文庫」の編集執筆を始め、またライフワークであったアンデルセン童話もデンマーク原語から三度文章を改め翻訳を試みた。だが正雄の身体は病魔にむしばまれ、1950(昭和25)年転居先の長男宅でガンのため永眠、両計画の筆は中途にして折られることとなった。演劇・辞典編集・児童文芸のみっつの分野においてその創造的編集の才を尽くし、多くの基礎を作った先駆者であった。そのほかの著訳編に「近代劇選集」「近代劇十二講」「ファウスト」「楠山正雄歌舞伎評論」(以上、演劇)「家なき子」「ふしぎの国のアリス」「イソップ物語」(以上、翻訳)「苺の国」「二人の少年と琴」(以上、創作)などがあり、「日本童話宝玉集」にある日本昔話は以後何度も再刊・再録された。(大久保ゆう) |
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