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論点とは?/ アイフル

[ 636] 解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点
[引用サイト]  http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/

ミャンマー、(私自身はこの国を今でもビルマと呼んでいますが)、そのミャンマーでは、5月2日から3日にかけて日本の台風にあたるサイクロンが襲い、13万人以上の死者・行方不明者を出し、被災者の数は国連の推定で240万人にも達しています。しかし、軍事政権は外国からの救援受け入れに消極的で、物資こそ受け取るものの、人的支援については近隣諸国から限定的に受け入れるだけで、国連や欧米諸国からの救援スタッフの入国は例外的にしか認めていません。パン・ギムン国連事務総長やアセアン各国からの強い働きかけにより、やっと人的支援を受け入れる方向に傾きはじめましたが、被災してから2週間以上がたついま、あまりに遅すぎる対応であると言わざるを得ません。
今でこそ、“情報公開”という言葉を知らない人はいないと言っても過言ではありませんが、情報公開の制度化について論じられるようになりましたのは、30年ほど前のことに過ぎません。そして、規模の大きな自治体で制度化が実現し、実際に運用されるようになってから、今年で25年、四半世紀になります。その規模の大きな自治体というのは、神奈川県です。神奈川県における情報公開について見ることは、日本の情報公開のかなりの部分について語ることになります。
フォトジャーナリスト 藤原幸一 今年の3月、南極を旅してきました。駆け足で冬がやってきそうな南極半島で、ぼくを待ちうけていたのは、吹雪ではなく猛暑でした。1990年代中ころから南極圏を何度も訪れ、基地滞在も2度ほど経験し、肌身で感じていたはずの極寒の地ですが。今回は、異様な光景を写真とビデオにおさめることになりました。例年、日本と季節が反対の南極では、2月下旬になると徐々に海が凍り始め、アデリーペンギンたちは本能的に吹雪がやってくることを知っているので、3月になる前に、北の凍らない海へと南極を去っていきます。
近頃の学生、元気がないと、勉強しないと、そして自立心が薄いとよく言われます。しかしこれは仕方がない面もあると思います。 これだけ豊かな社会の中で、ほんとうに可愛がられて、過保護に育ったわけです。しかしこれだけ変化の激しい社会の中で生き抜くためには、親離れして自立しなければならないと思います。 この過保護の象徴が入学式だと言われています。ほとんどの学校で、ともかく学生よりも父兄のほうが多いと。私、ことし大学の入学式にスピーチをいたしました。会場に行ってみるとほんとうに驚いたことに、圧倒的に父兄のほうが多い。びっくりしました。
「いるだけでみんなが迷惑している」。「お願いだから消えてくれ」。「肩にふけがベターっとついている。お前病気と違うか」。これらの発言は子ども同士のいじめ、「学校でのいじめ」ではありません。実際にあった大人同士のいじめ。職場のいじめでの発言です。 職場のいじめ・嫌がらせが増えています。東京都の労働相談では、平成7年から「職場の嫌がらせ」という相談項目を設置し、職場の嫌がらせの相談件数は、平成13年度では2671件だったものの、平成18年度では、4277件。6年間で60%も増えたことになります。 増加の原因は、一般に90年代後半からのリストラや成果主義の導入で職場内にストレスを抱えることにより、ストレス解消のためのいじめ、リストラがらみのいじめが多くなってきたといわれています。
判断能力が不十分となった高齢者や障害者を支える成年後見制度は2000年に導入され、現在12万人ほどの利用があります。これはドイツの「成年者世話法」にならって創られました。世話法は、日本より8年早く、1992年にスタートしたということもありますが、利用者はすでに120万人です。人口8200万人のドイツで、なぜこんなにも多くの人が世話法に支えられて暮らしているのか、その現状を先日、ドイツのベルリンとミュンヘンに取材しました。
米国でサブプライムローン危機が発生してから九ヶ月経ちました。この間に、関連証券の価格暴落で米国と欧州を中心に世界中の金融機関が何十兆円に上る大きな損失をこうむり、資本の増強に追われました。住宅価格は下落を続けています。当然、住宅産業は深刻な打撃を受けていますが、それだけではありません。住宅を担保に借金をふやした人達は、資産価値が下ってしまって、消費を減らさなければならなくなりました。米国経済の七割を占める個人消費の停滞は雇用や設備投資にも影を落とし始め、昨年の第四四半期以降、米国経済は殆んどゼロ成長に迄急激に減速しています。
北極といえば雪と氷の不毛な荒野を想像する人も多いと思いますが、実際はそうではありません。北極圏という場所が、人間にとっても動物たちにとっても、いかに豊かな場所であるか。それを知るためには、有史以前からそこに存在した、自然と人間の営みについて今一度考えてみる必要があると思います。
国分 良成 慶應義塾大学教授はじめに・5月6日から10日まで胡錦濤国家主席、国賓としては10年ぶり訪日中・昨日7日に天皇陛下と会見し、福田首相と首脳会談、夜はなごやかに宮中晩餐会・新たな日中共同声明が出され、「戦略的互恵関係」の包括的な推進を規定した・今日、早稲田大学で講演。直接聞いた感想・・・・・・・チベット、東シナ海ガス田、ギョーザ等の未解決問題あるが、全体としてここまでは成功・今回の胡錦濤主席訪日、<短期的視点>と<長期的視点>から見てみたい
こんにちは。WFP 国連世界食糧計画日本事務所代表の玉村美保子です。WFPは、飢餓に苦しむ世界の人々に対して食糧支援を行っている国連機関です。今日は、食糧価格の高騰とその影響と対処方法を考えていきたいと思います。

 

[ 637] 憲法をめぐる議論についての論点整理
[引用サイト]  http://www5.sdp.or.jp/central/topics/kenpou0310.html

2000年1月に衆参両院に憲法調査会が設置されて以来、懸念していたように改憲に向けた動きが加速化されることとなった。改憲を党是とする自民党は、結党50年を迎える今年の11月までに独自の改憲案を取りまとめることを表明し、昨年6月には同党の憲法改正プロジェクトチームが「論点整理案」(以下、自民党・論点整理案)を発表した。同様に民主、公明の両党も「憲法提言中間報告」(04年6月、以下、民主党・中間報告)、「党憲法調査会による論点整理」(04年6月、以下、公明党・論点整理)など、憲法の在り方、今日の議論について党としての考え方を表明した。
憲法調査会が5年余りにおよぶ議論の内容について「最終報告書」を取りまとめ、自民党が改憲案を発表する05年は、改憲の動きが頂点に達することが予想される。
言うまでもなく、憲法は国の最高規範として戦後日本社会の平和と民主主義の礎(いしずえ)となってきた。日本社会の将来像、アジアと世界の平和と安定、これを実現する安全保障政策の在り方などが徹底して論じられることのないまま、憲法尊重擁護義務を最も強く負っているはずの首相自らが、改憲の意思を国会の場で堂々と表明すること自体、憲法の危機であり、政治の危機である。
このような観点から、憲法をめぐり、焦点となっている課題について、以下のように党の見解を取りまとめることとした。
憲法調査会は、第145回通常国会での国会法改正(99年8月)に基づき衆参両院に設置されることとなった。党は、調査会を設置するまでもなく、憲法に関連した議論は衆参両院の各常任委員会で十分に行なうことができるとの立場から、国会法改正に反対した。それは憲法調査会が、改憲を目的にした機関になることに強い危ぐを抱いたからである。
設置に反対した社民党、共産党などの意見を踏まえ、国会法改正案の採決に先立ち、衆院議院運営委員会の理事会では「憲法調査会は、議案提出権がないことを確認する」と申し合わせ、憲法調査会が事実上、改憲のための発議権を持たないことを確認した。また、国会法改正では憲法調査会の設置目的を「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行なう」ことに限定した。
しかしながら、同調査会の活動は、憲法が占領軍から強要された「押しつけ憲法」だったのではないかという生成過程への疑問から始まり、果ては自民、民主、公明各党が取りまとめた憲法についての考え方を議論するに至るなど、憲法が社会にどのように反映されているのかという調査から大きく逸脱してきた感は否めない。
「最終報告書」については、例えば衆議院の憲法調査会では取りまとめの在り方が正式に議論されていない。にもかかわらず、「改憲が多数」、「護憲は少数」などの記述が盛り込まれると一部で報道されている。もし、そのような記述が盛り込まれるとすれば「広範かつ総合的な調査」という調査会の目的に反し、改憲の方向を提示するものであって、このような編集の在り方は容認できるものではない。さらに与党の自民、公明両党は、「最終報告書」を提出した後も憲法調査会を存続させ、国会法を改正して同調査会に法案審議権を付与し、実際に憲法改正手続きを定めた国民投票法案について審議することで合意している。この合意では、改憲案を発議できる常任委員会へと憲法調査会を衣替えさせることにも含みを持たせている。これらは、憲法調査会設置時の趣旨に合致しないばかりか、政治が主導する形で改憲の気運をいたずらに煽ることになりかねないものである。
憲法調査会の活動が、ともすれば改憲の後押しへと舵を切る中、昨年6月に発表された自民党・論点整理案の冒頭では「新時代にふさわしい新たな憲法を求める国民的気運は、かつてない高まりを見せている」と指摘し、憲法の全面改正を必要とする根拠とした。
確かに各種世論調査で、憲法にプライバシー権や環境権など「新しい人権」が必要とする割合が増えつつあることは注視しなければならない。しかしながら、焦点となっている9条については「変えないほうがいい」という回答が「変えるべき」という回答を上回っているのが各種調査の動向であり、国会における改憲論議とは大きな隔たりがある。
憲法調査会に参考人として出席した学者・知識人、あるいは中央・地方公聴会で意見を述べた公述人の多くが、憲法を変えることではなく「憲法を活かす」ことの重要性を訴えていることなども踏まえるならば、憲法の理念や価値がいまだに実現されていない事実を放置したまま、一方的に「国民の間で改憲の気運が高まっている」と結論付け、全面的な改憲に踏み込もうとする考えには賛同しがたい。
一方、様々な観点から論じられている改憲論の最終的なターゲットが、憲法前文および9条の変更にあることも明白になりつつある。自衛隊を「自衛軍」と位置づけ、集団的自衛権が行使できるよう明記し、海外での武力の行使を容認する考え方が、それである。
しかし、「テロ特措法」による海上自衛艦のインド洋派遣、自衛隊のイラク派遣と多国籍軍参加に明らかなように、政府自らがこれまで枠をはめてきた「必要最小限度の自衛力」あるいは「専守防衛」といった考え方からさえ逸脱し、憲法違反の事実を積み重ね、「現実と憲法が合わなくなった」として、違憲の現実に憲法を合わせるための改憲に踏み込むことは本末転倒である。
立憲主義の原則は、国家権力に対して厳しい規制や制限を加え、主権者としての国民の権利を保障したことにある。戦前・戦中における軍部の暴走とこれを許した反省から生まれた現憲法の重要な要素でもある。
ところが、現在の改憲論は「近代憲法が立脚する『個人主義』が戦後のわが国においては正確に理解されず、『利己主義』に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまった」(自民党・論点整理案)あるいは「新しい憲法」を「国民と国家の強い規範」「国民一人ひとりがどのような価値を基本に行動を取るべきなのかを示すもの」(民主党・中間報告)にすべきといった考え方を色濃く打ち出している。
これらの考え方は立憲主義の原則を誤まって解釈しているか、あるいは意図的に転換させるものと言えよう。憲法を、国民の「義務・責任」を明示した「規範」にすべきだという考え方は、個人の尊厳や基本的人権の尊重という価値観を著しく損ねるものである。
現憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と前文に明確にうたっているように、国家による戦争の惨禍、多大な犠牲に対する強い反省の下に生まれ、戦後の日本社会に平和と民主主義の重要性を根付かせる大きな力となってきた。戦争を否定する9条があったからこそ、戦後の国際紛争で日本が武力を行使して人々を犠牲にしたり、また犠牲になることもなかった。戦後の復興を経て国際社会で一定の評価を得るに至った背景には、現憲法の存在が強く寄与してきたことは疑いない。
これらの事実を踏まえたとき、社民党は戦後の日本社会の歩みそのものを否定するような現在の改憲の流れにはくみせず、憲法を護り、社会・政治・暮らしの隅々に活かし、憲法の理念を21世紀の国際社会の規範として広げていく立場に立つ。とりわけ、前文と9条を変えて、戦争を否定した国から「戦争を肯定する国」へと変質させていくことに対し、党の総力を挙げて反対する。
先にも触れたように、一方では憲法をないがしろにし、空洞化させるような現実もまた存在している。その意味で社民党は、憲法の条文がそのまま維持されればそれでよしとする立場には立たない。基本法や個別法などの充実を出発点に、憲法の理念を積極的に実現する、そのことに全力を挙げることが立憲政治に求められた使命だと考える。
改憲論者からは、「憲法前文は翻訳調である」、「正しい日本語で書き直すべき」等の批判があるが、こうした感情的、非論理的な理由で、すでに国民の間に定着している憲法前文を変える必要はまったくない。「前文」は、国際協調主義、平和的生存権など条文からだけでは読み取りづらい憲法の根本理念や発想を展開している重要な一部であり、前文と本文は不可分な一体をなしている。なお、前文を村上春樹、俵万智、石原慎太郎、曽野綾子といった著名な文筆家に書いてもらってはどうかなどという声もあるが、前文の意義をまったく理解せずこれをもてあそぶ議論であり、論外である。
日本国憲法に対して「一国平和主義」であるとの批判があるが、これはまったくあたらない。日本国憲法は国連憲章の理念をさらにすすめたものであって、その実現には国際社会の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する努力が欠かせないことは当然である。日本国憲法のめざすものはただ日本一国の平和ではなく「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ことであり、そのためには「自国のことのみに専念し他国を無視してはならない」ことを、憲法前文は明記しているのである。
自民党・論点整理案は、現行憲法の3つの原則を維持しつつ、わが国の歴史、伝統、文化に根ざした「国柄」を盛り込むべき等と主張している。この中身は、武士道や皇室、国家神道といったものにほかならず、時代錯誤もはなはだしい。「伝統」や「国民性」といった多様で内容が一様ではないものを改憲してまで憲法に書く意味はない。公共の精神、日本の歴史・伝統文化の尊重、愛国心、家族、道徳心や倫理観等を強調するのは、教育基本法改正論議とも軌を一にする国家主義的な志向にほかならず、認められない。これら愛国心や道徳心等は、そもそも憲法や法律に書いて国民に強制できるものではないのである。
自民党・論点整理案は、象徴天皇制は維持しつつも、天皇を「元首」と明記することに触れているが、社民党は天皇の「元首」化には断固反対である。天皇は統治権の総覧者ではなく、「元首」でも「君主」でもない。天皇を「元首」とすることは、国民主権の原理に反するものであり認められない。現行の象徴天皇制を維持するべきである。
自民党・論点整理案は宮中祭祀の主宰などの皇室行為を新たな天皇の「公的行為」と位置づけることを提起しているが、宗教的要素の強い皇室行為を「公的」に位置づけることは重大な問題である。
また、女帝問題を検討すべきとされているが、女性天皇については世論の多くも支持しており、社民党としても積極的に認めるべきと考えている。女性皇族が結婚後も皇籍を離脱しなくなることによって皇族が増える等の問題も指摘されるが、男女の扱いに差を認める理由とはならないからである。しかし、女性天皇の問題は皇室典範改正によって実現することで、憲法改正とは関わりのない問題であり、ここで議論すべき問題ではない。
そもそも世襲による「天皇制」は法の下の平等を定め貴族制度を否定する憲法第14条と矛盾するのではないかという指摘も根強い。しかし、憲法第1章の天皇に関する規定は、あらゆる権限が集中した戦前の絶対君主「天皇」の復活を防ぎ、戦後の民主主義と調和させるという積極的な役割を果たしてきたと考えることもできる。いずれにしても象徴天皇制が定着している現状を考えれば、いま「第1章・天皇」の条項の改正を行なう状況とはいえない。
新たな防衛大綱(04年12月)、新中期防衛計画等で明確になっているように、アメリカの戦略といっそうの一体化をはかろうとする小泉政権の安全保障政策は、平和憲法の意義をなし崩しに無力化するものであり、社民党として強く反対している。武器輸出三原則の緩和、海外派遣の本来任務への格上げをはかる自衛隊法改正、海外派遣のための恒久法の制定、防衛庁の「省」昇格等の動きは断じて認められるものではない。
自民党の憲法改正作業への陸上自衛隊幹部の関与が明らかになった(04年12月)が、このような文民統制(シビリアンコントロール)の原則を逸脱する事例が続出している。軍事に対して政治が優越するという文民統制の原則は民主主義国家の基本原則であり、平和憲法を持つ日本ではとくにきびしく徹底されるべきであるのは当然である。公務員の憲法尊重擁護義務や文民統制原則などのルールを徹底させ、実力部隊が独走することを万が一にも許してはならない。
すでに、新ガイドライン以降、周辺事態法、テロ対策特措法、PKO法の改正、イラク特措法、有事関連法制など、憲法第9条の理念に反する立法が積み重ねられ、自衛隊の活動領域は実質的に「専守防衛」の範囲を大きく超えて拡大している。にもかかわらず憲法第9条の規定がなお、日本の軍事的対応を制約する最大の要素となっており、日本国の平和主義の最後の砦として重要な役割を果たしていることは間違いないのである。
これまでに提案されている様々な改憲案も、現行憲法の「平和主義」自体は否定せず、第9条2項の「戦力の不保持」を改めようとするものが多い。自衛隊を憲法の中に位置づけ、現行憲法下での制約を取り払った「軍隊」として活用しようという流れである。自民党・論点整理案は、[1]戦力の保持の明記、[2]集団的自衛権の容認、[3]非常事態に関する規定の明記を主張しており、公明党の論点整理も「制約された自衛権」の追記等を掲げている。民主党内にも国連決議の下での武力行使を認め集団的自衛権の行使を容認すべきとする勢力が強い。社民党は、こうした一切の第9条改憲論に明確に反対である。
国際人道法は、1899年のハーグ平和会議以降、戦争のルール化から戦争自体の違法化へ着実に進んできた。1920年の国際連盟規約、1928年の不戦条約と歩んできた戦争違法化の潮流の一定の到達点が、自衛目的を除く加盟国の武力行使を全面的に禁止した1945年の国際連合憲章である。日本国憲法第9条は国連憲章が到達した戦争違法化の原則を徹底させたものであり、戦力の不保持を定めた第9条第2項がその具体化である。社民党が策定中の「社会民主主義宣言2005」(第一次草案)では、「平和的生存権」を「もっとも根源的権利」と明記し重視する姿勢を打ち出しているが、日本国憲法こそ世界で初めて「平和」を人権の一つとして保障する立場をとったものであり、その核心である「戦力の放棄」すなわち第9条2項は人類の叡智ともいえる。戦争は違法であり、紛争解決の手段として武力に訴えることは主権国家の正当な権利ではないという国際人道法の到達点=日本国憲法第9条を後退させることがあってはならないのである。
総合的に判断すれば、現在の改憲論議の狙いが憲法第9条2項の「改正」にあることは疑いなく、第9条の擁護こそが護憲運動の核心であることを強く認識しなくてはならない。「戦争と戦力」を放棄した平和国家日本のあり方こそが、今、注目されつつあるのであって、専守防衛に徹した最小限の自衛力=自衛隊を米国とともに実際に戦える「普通の軍隊」に戻すことなどあってはならないのである。社民党は運動の中心を第9条擁護にすえ、明文改憲を阻止することはもとより、これ以上の解釈改憲を許さず、憲法の理念の実現に向けて軍縮をすすめ、非軍事面での国際貢献の強化するなど、平和国家日本の実質化のために全力をあげる決意である。
すでに社民党も最小限の実力としての自衛隊を憲法の中に位置づけたうえで、軍事力によらない安全保障体制の整備をすすめながら段階的かつ積極的な軍縮を行なうという方法で、将来の非武装の日本を目指すという立場をとっている。自衛隊の実態については多くの問題があるが、災害救援等に果たしている役割は国民からも評価されており、国会内では自衛隊の存在自体を否定する議論はほとんどなくなっている。あえて憲法を変えてまで自衛隊の位置づけを明記しなくてはならない実質的な意味はほとんどないのである。この現実を考えれば、改憲の真の狙いが単に自衛隊の認知にとどまらず米国の随伴者として世界中で自由に武力行使が出来る戦争国家体制の実現にあることは明かだ。有事法制=戦争法制の整備、国旗・国歌法の制定、自衛隊の海外派遣等の動きと軌を一にする国家主義、軍事大国化の流れを完成させるものに他ならないのである。社民党としてこの流れに全力で抗し、平和国家創造への決意と具体策を提起していきたい。
国際貢献は、軍隊や軍事力によらない、例えば大規模災害への緊急援助、発展途上国の社会開発への協力、紛争予防の外交努力、医療、教育など非軍事面での貢献策等を追求するべきである。平和憲法の理念は21世紀の国際社会の規範たり得るものであり、現実を平和憲法の理念に接近させる着実な努力こそが求められている。
このため社民党は、アジアに軸足を置いた集団安全保障の枠組みとして「北東アジア総合安全保障機構」を構築し、北東アジアに非核地帯を設けるなどして、地域全体で軍事依存を低めていく道筋を描いた『21世紀の平和構想』(通称「土井ドクトリン」)の提起を基本に位置づけている。このなかで、「平和基本法」を定め自衛隊を災害救援のための非武装の国際協力隊等に縮小・再編することや、「人間の安全保障」の理念の徹底、日米安保を平和友好条約に転換すること、平和主義・第9条を世界に拡げるため「非核不戦国家宣言」を国会で決議し国連総会で承認してもらうこと、など様々な提起を行なっている。
憲法の前文は「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と明確にうたっている。私たちは、不戦・戦力の不保持・交戦権の放棄を明確にした9条、すべての国民が個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の最大限の尊重を必要とした13条、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障した25条と合わせ、「平和のうちに生きる権利」=平和的生存権を最も根源的な権利として重視する。平和的生存権は、1941年の年頭教書で米・ルーズベルト大統領が唱えた、[1]言論の自由、[2]宗教の自由、[3]欠乏からの自由、[4]恐怖からの自由という、人類の「4つの自由」などにその原点があるといえるが、憲法上に位置づけたのは日本国憲法が先駆的なものといえる。人権は法的に保障されていても、戦時には制限され剥奪されるのが通例だ。国家の存亡のかかっているとき、国民は人権を犠牲にして国家に奉仕するのが当然という前提によるものだろう。しかし平和的生存権は、戦力の放棄・交戦権の否認と一体となって、このような前提自体を否定している。つまり、不戦憲法でなければ平和的生存権を基本的人権として保障することはできない。それは戦争によって多くの命を失った代償として獲得した、まさに日本国憲法独自の宝であり、過去の歴史から学び取った日本の英知ともいえる。
憲法は、「個人の尊重」という価値観をさらに発展させて、平和的生存権という人権を保障している。一人ひとりを個人として尊重するからには、その一人ひとりの命が大切に守られ、恐怖と欠乏に怯えることなく平和に生きていくことができなければならないことを「権利」としてはっきりと保障した。したがって国家はこの人権を保障する義務を負うことになる。内政はもとより外交も安全保障も、国家の政治はすべてこの平和的生存権という人権に奉仕するものでなければならないのである。その意味で、平和的生存権は、憲法前文及び9条、13条、25条によって位置づけられるにしても、各人権条項、さらには統治機構の条項も含めた憲法全体の平和憲法体系の中を貫くものとして平和的生存権が存在するともいえる。もちろん、平和的生存権は「全世界の国民」の権利であるだけでなく、「いすれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とされているため、日本は全世界が恐怖と欠乏から免れるようにする責任がある。したがって日本は、非暴力の手段によって積極的な活動をする世界一国際貢献度の高い国でなければならない。平和的生存権は、これからの世界の進むべき方向を明らかにしたものであり、日本国憲法の先進性を示すものといえる。
改憲論者の主張する前文の改変、9条第2項の交戦権否認の削除、13条や25条の見直しは、この平和的生存権の削除・無意味化を狙ったものともいえる。しかしそれは、まさに19世紀の自由権から始まり、20世紀の社会権、そして21世紀は平和的生存権と人間の安全保障という近代憲法の発展の流れを逆行させるものにほかならない。
自民党・論点整理案は、「新しい時代に対応する新しい権利をしっかりと書き込むべきである」として、環境権、プライバシー権、生命倫理に関する規定、犯罪被害者の権利に関する規定など、「新しい人権」を設けるべきであるとしている。また、民主党・中間報告もプライバシー権、名誉権、知る権利、環境権、自己決定権などの「新しい人権」を明記するが、さらに国際人権法の尊重、永住外国人への地方参政権付与を含む外国人の権利、合理的な財産権の行使と制約、知的財産権に対する保護、子どもの権利などについて積極的に打ち出している。公明党・論点整理は、環境権等の「新しい人権」を明示すべきであるとしたうえで、法律扶助を受ける権利や犯罪被害者の権利を盛り込むことを検討すべきだとする。
現代社会の進展につれて、憲法制定時には思いも及ばなかった、たとえば児童虐待やストーカーなど新しい形の人権の侵害や、保護に値する新しい利益はつねに発生する。「新しい人権」は、憲法制定時には明記されてはいなかったけれども、社会の変遷に伴い、自律的な個人が人格的に生存するために、不可欠と考えられる基本的な権利・自由として保護するに値すると考えられる法的利益であり、時代の変化・発展に対応して具体化され定着しつつある。
まず、「新しい人権」にとって、憲法上明文規定がなかったことが障害となっているのかどうか検証する必要がある。「新しい人権」は、憲法が障害となったことはなく、逆に、憲法の包括的人権規定ともいうべき、第13条(個人の尊重、幸福追求権)及び第25条(生存権)、第98条(国際主義)が根拠となっている。これら人権を豊富化する条項によって、「新しい人権」が憲法体系上位置づけられ、個々の権利が裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになったのである。たとえば、環境権やプライバシー権は幸福追求権や生存権をよりどころとして主張されてきたし、これまでも運動の積み重ねや裁判闘争によって、判例上確立してきた。さらに「子どもの権利」やILO関係の労働権、「女性差別撤廃条約」などのように、98条に基づく国内法整備を通しても人権の豊富化は図られてきた。
むしろ「新しい人権」の実現に対しては、官僚の抵抗や自民党政権が消極的であったことが障害となっている。たとえば、大規模公共事業を推し進め環境破壊を引き起こし、また環境基本法に「環境権」を盛り込むことに反対してきた人が「環境権」を言い出した。情報公開法に「知る権利」を盛り込むのに反対した人が憲法に「知る権利」を盛り込めという。個人情報の保護をいう人がいわゆる盗聴法を推進し、メディア規制を強化しようとしている。
たとえ改憲勢力が「新しい人権」を憲法に規定したとしても権利の内容の実効性は乏しい。9条がありながら自衛隊を強化し、25条がありながら「プログラム規定」とする改憲勢力にとって、たとえば「環境権」を盛り込んでも、せいぜい行政に努力義務を課す程度のものとされ、具体的な建設差し止めなどの法的権利を認めることにはならないであろう。加えて人権の総則規定で「公共の秩序」を強調するなどして、「新しい人権」についても実質的には制限される危険性もある。これは、憲法13条などを活かして日本国憲法の創造性を発揮させてきたこれまでの運動や判例の到達点をさらに進めるというのでなく、逆に制限することにつながりかねない。権利を実施する努力を放棄しながら条文を変えたらできるがごとく改憲派が「新しい人権」を持ち出すことの「真の狙い」はどこにあるのかを見落としてはならない。
一方、9条の「改悪」には反対だが、知る権利や環境権などの「新しい人権」については、憲法に盛り込んでもよいのではないかという意見も世論調査等で見られるようになってきた。指摘されている課題については、憲法の包括的人権条項に基づいて、「新しい人権」を具体化するための基本法の制定や法制度の整備などを進めることで解決していけると考えているが、これらの議論は保守勢力の憲法改悪志向とは異なる性格のものと受け止めるべきである。大切なことは憲法「改悪」の阻止とともに、「新しい人権」の内容自体の実現であり、そのために党がこれらの人々と手を取り合っていくことは当然である。
現行憲法に対し、国民の権利規定ばかり多く、義務規定が少ないとの非難を浴びせ、各種の義務規定の追加が打ち出されている。例えば、自民党・論点整理案においては、「権利・自由と一体をなす義務・責任」が強調され、「社会連帯・共助の観点からの公共的な責務」、「家族を扶助する義務」、「国の防衛、非常事態における国民の協力義務」、「環境保全義務」などの義務規定や責務規定を大幅に増やそうとしている。民主党・中間報告も、環境保全義務などを盛り込むことを打ち出している。
そもそもこれらの改憲論者の主張には、憲法とは主権者たる国民が権力者の権限行使に制約を課したものであるという、立憲主義の根幹に関する意図的な誤解若しくは無理解がある。
「国の防衛、非常事態における国民の協力義務」は、軍事目的のために国民を総動員する根拠にもなりかねないし、「家族を扶助する義務」は社会保障の責任転嫁につながるおそれがある。国民に対する「環境保全の責務」も、自然との共生のための規定ではなく、環境を実際に破壊している企業の無法・不当な経済活動や大型開発の責任をあいまいにするとともに、負担を国民に押しつけるねらいが背後にある。あわせて「意に反する苦役の禁止」規定の廃止や、「表現の自由」への青少年保護などを理由とした制限の拡大など現在の憲法上の権利の縮小・剥奪の動きにも注意すべきである。
これは、単に言葉の言い換えではない。人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である「公共の福祉」は、明治憲法下の「安寧秩序」、あるいは戦時中の「公益優先」、「滅私奉公」のように、個人の権利を否定し、個人を犠牲にした上での権力に対する忠誠を意味するものではない。
「公共の福祉」を「公共の利益」や「公益」といった抽象的な最高概念として位置づけることは、対等な人権の調整から、強者のために弱者の権利を犠牲にすることへの転換であり、現憲法の三大原理の一つである基本的人権が明治憲法下における「法律の留保」のついた人権保障におとしめられ、法律による人権制限が容易に肯定される状況を生み出す恐れがある。例えば国家の安全、軍事目的のために、表現の自由や思想・信条の自由等が制限されることにつながり、戦争への批判を立法によって制限する根拠にもなりかねない。しかも仮に「新しい人権」を憲法上規定しても、人権総則において「公共の利益」で制約を課せられてしまっては、市民にとって「新しい人権」を盛り込む意味はなくなってしまう。
問題は、「公共の福祉」概念が本来、政治的・経済的・社会的な強者のためのものではないにもかかわらず、多数による少数者の人権に対する侵害の根拠として利用してきた、これまでの解釈・運用にある。
「個人より国家、個より公」を強調する改憲論者から、現憲法に対し、個人主義的であり、自己中心の利己的な風潮を生んだとの指摘がある。例えば、自民党・論点整理案は、「近代憲法が立脚する『個人主義』が戦後のわが国においては正確に理解されず、『利己主義』に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか」とした上で、「権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理」であり、「家族・共同体における責務を明確にする方向で、新憲法における規定ぶりを考えていくべき」としている。
しかし、個人主義は全体主義と対抗する主張であって、決して利己主義を意味するのではない。ひとりひとりの自由・人権が抑圧され、民主主義が不十分な戦前の体制が戦争遂行を支えたということに対する反省の上に立って、現憲法は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」としているのである。この「個人の尊重」は、「お国のために」の対極の概念として位置づけられるべきである。
人権の点では、国連やILOなどから度重なる勧告を受けていることからも、日本は先進国でない。同時に、日本の民主主義の脆弱性の根底に個人の尊重、民主主義の徹底という憲法理念の実現が不十分な面があり、そこに私たちの運動の弱さもあることは否めない。12条にもあるように、人権をみんなの努力で守り発展させていく一層の取り組みが必要である。
13条の規定は、憲法3大原理である国民主権、平和主義、基本的人権尊重の根源的価値である「個人の尊重」を規定するとともに、包括的人権規定として、時代の変化・発展に対応して生み出される新しい人権の根拠規定ともなりうる重要な意義を有している。
自民党・論点整理案は、政教分離規定(憲法20条3項)について、「わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべき」であるとする。これは、軍事大国化にとって焦眉の急の課題の一つである靖国神社への公式参拝が違憲と判断されないようにするとともに、靖国神社を今後増えるであろう自衛隊や多くの国民の戦死者をまつる公的な慰霊の施設とすることにある。
旧憲法は、「信教の自由を保障する条項」(28条)がおかれていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限があり、加えて国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして国家神道に対する信仰が要請されたり、逆に一部の宗教団体に対し厳しい迫害・弾圧が加えられたりしたこと等もあって、信教の自由の保障は不完全なものであった。国家と宗教と武力とが密接に結びつき、日本のみならず世界、特にアジアの人々の基本的人権と平和を侵害したとの反省を込めて、日本国憲法は、信教の自由を無条件に保障することとし、さらに政教分離規定を設けるに至ったのである。精神的自由は非常に重要であり、現憲法の政教分離規定はきわめて厳格に解されなければならない。
なお、宗教そのものではないが、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」を強調する学習指導要領や、民主主義を標榜しつつ権威への内面的服従意識を植え付ける学校儀式などの無宗教儀礼についても、国家権力が権威と結合して個人の自由に介入し圧迫するものとして、思想・信条の自由の観点からも注意する必要があるのではないか。
自民党・論点整理案は、婚姻・家族における両性平等の規定(24条)について、「家族の崩壊」といわれる現象や、諸外国の憲法や世界人権宣言などで「国家、社会の基礎」として家族が位置付けられていることなどを引き合いに出し、「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである」としている。改憲論者の中には、現行憲法に義務規定が少ないと批判し、「すべて国民は家族を愛し、国家を愛さなければならない」旨を明記すべきと主張する者もいる。
しかし、日常「男は仕事、女は家庭」、「男らしさ、女らしさ」が強調されるように、そもそも家族形成に関する自己決定権や夫婦同権を認めた24条の理念や、14条の性差別の禁止の理念が日本には十分に根付いていないのではないか。女性差別撤廃条約やこどもの権利条約など国際的人権条約の発展の中で、日本の家族法制や男女平等のあり方が厳しく問われており、国際的な人権の流れに沿って、日本のあり方を改革すべきである。家族生活における「個人の尊厳」と「男女の平等」を見直していこうという「逆流」は決して許されない。
24条の見直しは、個人の人権を抑制する「公共」の基盤として家族・共同体を位置付け、事実上の戦前の戸主中心の家制度の復活にもなりかねない。これは一人一人の個人の自由よりも家長・戸主の権限を高め女性を男性の従属下におくことになるが、家庭を国家の代行機関とした家制度は、天皇と国民の関係を親子関係になぞらえたうえで、親に対する孝を天皇に対する忠にすりかえることになり、このことが「富国強兵」のかけ声の下、戦争を勝ち抜くための体制となった。家族が大切であることは論を待たない。だが家族が尊重されるということは家族を構成する個人を尊重することであり、24条が日常生活に根づかなければ本当の平和とはいえない。
また、国民の権利としての25条を、国民の義務としての25条に変えようとする方向性からすると、24条の見直しは、男女不平等・性別役割分業型の家族と連結させられることになり、家族扶助の名目で女性に家庭内労働を押しつけようとすることになりかねない。単身赴任や長時間労働のような、家族的責任を果たせないような働き方を強いる社会環境や企業のあり方こそが問題であり、家族形成を損なう状況に対して、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とする24条の理念に基づく具体的な支援策を求めていく。
自民党・論点整理案は、国に対し社会保障の充実の責務を定めた25条をはじめとする社会権規定を、「社会連帯・共助の観点から社会保障制度を支える義務・責務のような規定」に変えることを志向している。
もともと生存権をはじめとする社会権規定は、資本主義経済の進展に伴う、貧富の差の拡大や失業の増大、労働者に対する搾取の強化等の社会的矛盾の激化に対し、資本や経営者の自由、やりたい放題にまかせておくのではなく、国家が適切な規制・介入をすることによって、労働者や社会的弱者の人間的生存を保障する責任を有するという流れが背景にあり、第一次世界大戦後のドイツのワイマール共和国の憲法(1919年)ではじめてみとめられ、第二次世界大戦後、各国憲法の中で大きな位置を占めるようになった。
現憲法も、この社会権の流れを受け継ぎ、25条で人間に値する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」として生存権を規定するとともに、26条で教育を受ける権利を、27条・28条で勤労の権利及び労働基本権(労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権)を規定している。
しかし、自民党の方向は、国家による生存権の保障義務を国民の社会扶助に転換させようとするものであり、社会権規定が自己責任・自助努力の推進の根拠規定へ変質され、福祉切り捨てと負担の国民への転嫁をより推進しようとするものといえる。
問題は、社会権規定が「プログラム規定」に矮小化されてしまい、所得・資産の二極分化、3万人を超える自殺者の発生、リストラによる解雇、不払い労働・過労死の横行、労働の流動化、非正規労働者の増大等といった現実を生んでいるというところにある。
自民党・論点整理案は、「迅速かつ的確な政策決定及び合理的かつ機動的な政策執行を可能とする統治システム」を目指し、政治主導の政策決定システムの徹底、プロセスの大胆な合理化、時代の変化に即応したスピーディに政治判断を実行に移せるシステムづくりを標榜している。国会のあり方については、国務大臣の出席義務の緩和、議事の定足数(56条1項)の削除、法律案の提案権の国会議員への限定を打ち出すとともに、閣議における内閣総理大臣のリーダーシップ、衆議院の解散権の行使主体及び行使要件、国会の予算修正権など、現憲法では必ずしも明確でない事項について明確な規定を置くべきであるとしている。
特権官僚が政治を実質的に主導する明治以来の「官僚内閣制」を脱却し、国民の直接公選による議員で構成される国会が、国権の最高機関として行政権の首長である内閣総理大臣を指名し、成立した内閣は国会に対して連帯して責任を負うという、国会と内閣の抑制と均衡による本来の「議院内閣制」を実現することは、いまや国民的課題である。
現在でさえ、多数の横暴による国会の形骸化が進んでいる。例えば、昨年の年金法案の場合、法案提出者である閣僚の年金保険料未納問題、公聴会すら省略した審議のあり方を不問にし、国民不在のまま政府案の衆議院厚労委員会採決を強行、参議院段階でも中央公聴会すら開かず、社民、共産、無所属の委員に質問すらさせないまま再び委員会採決を強行した。さらに散会となったはずの参院本会議の開会を強行し法案の成立が図られた。徹底審議を求める野党と制度改悪に反対する圧倒的多くの国民を顧みることなく、多数の暴力で繰り返された強行採決は、暴挙に暴挙を重ねたものであり、国会の形骸化きわまれりという状態だ。
しかし、自民党・論点整理案の打ち出している方向は、議会制民主主義の充実や議院内閣制の本来の機能強化を目指すものではない。数の力による「強権政治」の土壌となる危険性があり、国会は一層形骸化するとともに、官僚制の民主化をもさらに阻害するおそれがある。参議院選挙制度の改悪、二院制の見直し、首相公選制も痛みを強いる構造改革をよりスピーディーに推進しようというその延長線上にある。
政治主導の政策決定を困難にした大きな理由の一つは、自民党の長期単独政権にある。つまり、大臣・政務次官を短期間(平均8か月)で入れ替えることによって、公的ポストを政党内部の利益体系や昇進コースの中に組み込み、官僚への従属を促進させたことを見失ってはならない。
また、現実の立法過程は、立法していいかの判断基準から憲法が彼方に追いやられてしまう「悪法」が多い。「官僚の官僚による官僚のための立法」の面が色濃く、国会の役割も政府の提出法案に、正統性・お墨付きを与えるだけの「法律作成マシーン」ともいうべき状況にとどまっている。しかし本来、立憲主義に対して果たす中心的役割を憲法が保障しているのであって、法案の内容を活発な議論を通じて詰めていく過程こそ、国権の最高機関であり唯一立法機関たる国会にふさわしい活動であり、憲法の求める立法活動である。同時に法案作成・法制化に当たっては、憲法尊重擁護義務に基づく対応が不可欠である。
自民党・論点整理案では、国務大臣の文民条項(66条2項)の削除が提案されている。これは陸軍大臣・海軍大臣の現役武官制が軍部の増長・横暴を招き、戦争遂行に拍車をかけたことの反省に立って国務大臣の文民条項が設けられたことへの無理解である。「戦争する国」づくりを進め、自衛隊の政治への介入を招来する危険もあり、シビリアンコントロール原則にも抵触するため、文民条項の廃止は断じて認められない。
その後、自衛隊出身で元防衛庁長官である中谷元氏の依頼で陸上自衛隊の幹部が改憲案をつくって自民党憲法改正案起草委員会に提出したことが明らかとなった。そこには、軍隊設置、国民の国防義務、集団的自衛権の行使、国家緊急事態の布告などが盛り込まれている。戦前の陸軍の「国家改造」を思わせるような逸脱行為である。
自民党も民主党も積極的に二院制の見直しを打ち出している。例えば自民党・論点整理案は「現在の二院制については、両院の権限や選挙制度が似かよったものとなっている現状をそのまま維持すべきではなく、何らかの改編が必要である」とし、民主党も二院制のあり方を見直し、衆院と参院の役割分担を図ることを「中間報告」に盛り込んでいる。
しかし、参議院は、議院内閣制の弱点を補完して衆議院及び内閣に対するチェックアンドバランスを発揮するとともに、異なる制度、異なる時期による選挙によって、国民の多元的な意思をより良く国会に反映することから、議会の任務である行政への抑止の役割をより重く担っている存在である。そういう意味で、連邦国家の二院制や貴族院型の二院制と異なり、日本の参議院は、「民主主義を強化する二院制の先駆的制度」であるということができる。「良識の府」にふさわしい参議院の機能の発揮こそが必要である。
政治への閉塞感から首相公選制への期待が持たれているが、首相公選制には、議院内閣制を形骸化させ、行政優位の官僚政治や「リーダーシップ」に名を借りた危機管理対策をますます強めたり、国民に犠牲と負担を強いる「構造改革」の推進に利用されたりする恐れがある。とくに首相公選が英雄待望論と結びつくことによって、かえって人々の政治への責任を放棄させ、民主主義の空洞化をもたらし、ナチズムのような危険な政治状況をつくり出すことにつながりかねない。むしろ、国会の行政府に対する監視・統制機能の強化が必要であり、行政優位に拍車をかけ、強権政治を推進することにつながる首相公選論には賛成できない。
また、首相のリーダーシップの発揮の観点から、内閣に属している行政権を、内閣総理大臣に属するものに変えようとする主張もある。これは国民に痛みや抵抗を生み出す問題について、閣議の一致をとらなくても突破できるようにしようとするものである。
従来から、憲法に政党の位置づけがないことに対し、[1]政党政治の再生のために、政党法(あるいは政党基本法)を制定すべきであるとの主張や、[2]政党の役割を憲法にしっかり明記することにより、議会政治に対する政党の重要性を示す必要がある、[3]政党の健全化や政官業の癒着構造の打破などにつながる、[4]政党の意義を明文化することにより、政党の役割は拡大し、国民的利益の集約機能がより高まり、国民の多様な意見・要求が反映しやすくなるなどということから、政党に対して法的な規制を加えて、各政党に党内民主主義等を法的に要求する必要があるという意見がある。民主党の「中間報告」でも、政党規定の導入を打ち出している。
しかし、憲法上に政党規定を設けるにせよ、政党法を制定するにせよ、結社の自由の保障(憲法21条)の点でも、議会制民主主義の活性化の点でも、逆に作用する可能性が高い。党内民主主義は一様ではなく、問題があるからといって、法律を介入させ、例えば、党首選挙における選挙違反を処罰するとなると、結社の自由は政党には保障されなくなってしまう。また、政党が国会で政党に関する法律を作るとなると、どうしても、多数派の肯定あるいは許容する内容になってしまう一方、人数や綱領、規約、運営方法などについて、少数党に不利な規定が行われかねない。旧西ドイツで行われてきたように、現体制に反対する政党が国家権力によって禁止され、解散させられ、その財産が没収されたりする危険性もある。
議会制民主主義の点で見ても、議会内多数派が少数派を弾圧・抑制するために、政党法が利用されることになれば、自由な議論・政策論争を通じて、政権交代が行なわれることを阻害することになり、議会制民主主義は活性化するどころか、衰退してしまいかねない。
したがって、政党規制の導入は、憲法21条に保障された結社の自由を侵害するものとなってしまうことが懸念され、痛みを強いる構造改革や「戦争する国」づくりに反対・抵抗する政党の活動に制約を加えようとするものになりかねない。
日本国憲法が、結社の自由をうたうのみで政党それ自身を規定しないのは、戦前の無産政党への弾圧や翼賛政党化が戦争遂行を食い止められなかったとの反省の上を踏まえてのことである。憲法の理念に立脚するならば、結社の自由によって日本の民主主義を豊富化させ、戦争体制作りをストップさせることが求められる。
自民党・論点整理案は、最高裁判所による法令審査権、いわゆる違憲立法審査権の行使の現状に不満を表明したうえで、「憲法裁判所制度など憲法の実効性を担保する制度」について「この際明確に位置づけるべきである」とし、「民主的統制を確保しつつも政治部門が行う政策決定・執行に対する第三者的な立場から憲法判断をする仕組み(憲法裁判所制度、あるいは最高裁判所の改組など)について検討すべきである」という。民主党「中間報告」も違憲審査部門の導入を盛り込んでいる。
しかし、第一に、法律が制定されてすぐに、具体的な事件もないのに、紛争が生じないにもかかわらず、意見が違うというだけで、議会の三分の一や政府が憲法裁判所へ持っていくというようなことになれば、憲法裁判所で合憲になったからとして十分な国民的議論もないまま政府や多数党の政策に憲法上のお墨付きを与えるだけのものとなりかねない。第二に、例えばドイツの場合は、ナチスの再現を決して許さないとの立場からその芽を封じるための措置として憲法裁判所を設けているのであって、ドイツの憲法裁判所は非常にすぐれているからその制度を日本に持ってくれば違憲審査は活性化するといったことは乱暴な議論である。なお、ドイツ型を推奨するのであれば、国民が憲法上の権利を侵された場合に直接救済を求めることができる「憲法異議申立」制度を導入しないのは、国民の権利救済のための憲法裁判所という意識が導入論者に欠落していることを表している。第三に、下級裁判所の持つ法令審査権を損なうことになり、具体的事件の発生に伴う権利救済が困難になる。
たしかに「違憲審査をめぐる閉塞状況」が指摘されているが、原告適格や訴えの利益の有無、統治行為論等によって、消極的に違憲審査が行われてきたことが問題である。違憲立法審査権は、日本国憲法81条に明記され、憲法の最高法規性、三権の抑制と均衡、基本的人権の保障を守る上で重要な規定である。とくに最高裁判所は、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」(81条)であり、下級裁判所と異なり決定権限を有している。憲法の平和主義、あるいは基本的人権の尊重、国民主権主義という基本的な理念、憲法価値の番人として、決定権も含む違憲立法審査権がつくられたという趣旨を活かす方向での最高裁判所が権限行使することこそがまず必要である。
自民党・論点整理案は、最高裁裁判官国民審査(79条)について、「最高裁判所裁判官の国民審査の制度は廃止し、廃止後の適格性審査の制度についてはさらに検討を行うべきである」、地方自治特別法の住民投票(95条)について、「昭和26年以降『一の地方公共団体のみに適用される特別法』の制定はなく、現行95条は削除する方向で検討する」としている。
「憲法の番人」たる最高裁裁判官の任命は重要な政治的行為であり、国民の監視が必要である。国民審査は事後的ではあるが、内閣の任命を審査し、不適格な裁判官を罷免することのできる、国民に与えられた現在唯一の手段である。国民審査の投票のあり方や資料作成など今までの運用にこそ問題がある。
また、実務上、地方自治特別法とされ、住民投票に付されたのは広島平和記念都市建設法、長崎国際文化都市建設法、首都建設法、旧軍港都市転換法(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)等15法、18都市にとどまり、51年公布の軽井沢国際親善文化観光都市建設法を最後に特別法とその賛否を問う住民投票は、実施されていない。しかし、95条は、特定の地方公共団体の本質に関わるような不利益・不平等な特例を設けることを防止し、中央権力による自治権への侵害を防止するために、議会を介さず、直接投票によって住民の意思を問う手法である。これは、住民の基本的人権である。問題は、例えば沖縄関係の諸立法のように、本来特別法が適用されるべき事例でありながら、国政レベルで95条がないがしろにされてきたところにある。
いずれにせよ、79条、95条は、主権者の意思を直接に表明する民主主義の制度のひとつである。代表民主制を基本とした日本国憲法下において直接民主制を取り入れ、国民主権を実質化させるという意味を持つ条項であり、主権者の直接民主主義的権利の剥奪は許されない。
憲法86条は、予算の作成権が内閣にあることを示すとともに、予算についての最終的決定権が国会にあることを示す規定である。これも財政民主主義の一環である。また、会計年度独立の原則(予算単年度主義)、会計統一の原則、総計予算主義、予算事前議決の原則も示される。この予算の単年度主義について、「会計年度を1年とすることを前提とした憲法・財政法の定める財政システムを検証」すべきとの意見が自民党・論点整理案には盛り込まれている。
たしかに、配分された予算をその年度のうちに使い切らなければならないとして、年度末に不必要な物品の購入をしたり、無駄な工事を行ったりといったように、単年度主義が予算の無駄遣いにつながるという批判も多く、例外規定として、継続費制度、国庫債務負担行為制度、繰越明許制度などがある。
このうち財政法第14条の2に定められている継続費は、完成に年度を要する事業に充てられるものだが、もともと明治憲法では68条(特別ノ須要ニ因リ政府ハ予メ年限ヲ定メ継続費トシテ帝国議会ノ協賛ヲ求ムルコトヲ得)に明定されていたものの、現行憲法に規定は設けられていないし、制定当初の財政法にも盛り込まれていなかったものである。財政法改正当時から、[1]旧憲法に規定があって新憲法に規定がないことは継続費制度を否定しており継続費は違憲ではないか、[2]複数会計年度を前提にしている継続費は現行86条の単年度原則を鮮明にしている規定に反するのではないか、[3]財政規律の維持・健全化を損なうのではないか、[4]かつてのように戦費使用・軍艦建造に利用され、戦争遂行のための財源作りとなるのではないか(財政法5条の公債の日銀引き受け禁止も同趣旨)といった疑義が出されていた経緯がある。実際、旧憲法第68条が明文で継続費を認めていたことが、軍部によって濫用され、議会の審議権(統制権)が非常に弱められる結果となった。
現在、継続費が組まれている事業は、防衛庁のイージス艦や潜水艦の建造であり、軍艦建造に乱用されるとの当時の危惧があたっていたといわざるをえない。
継続費を否定し予算の単年度主義を新憲法の原則とした起草者の意思は、戦争中の軍事費拡大に戦時公債の乱発や継続費が使われたということに対する苦い経験があるということを忘れてはならない。そもそも憲法は主権者による権力者への授権を定めたものであり、旧憲法にあったものがわざわざ削除された継続費制度は、憲法に明記されていないかぎりは、授権されていないことから、政府が権限行使できないと解すべきである。
また、現行単年度予算においても、予算の透明性が十分確保されているとは言えず、多年度予算になればさらに透明性が確保されにくくなるのではないかという問題も生じる。
憲法と財政について論議する以前の問題として、充分に国会に対する予算・財政の透明化が図られ、国会がコントロール可能な状態に置かれているか、議決のあり方をどのようにするのかということも大切である。例えば、[1]1会計、32特別会計、8機関の会計について、3案一括して議題として採決するということでいいのか、[2]「国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」について単に国会は質問するだけに終わり、国権の最高機関としての国会による修正例がほとんど無いことを考えてみる必要がある。いずれにせよ国民の血税をどう使われるかを為政者ではなく国民の代表者が決めるのが議会制民主主義の源である。そうであれば、まず「隗よりはじめよ」として、国会の憲法調査会最終報告書の予算、とりわけ7700万円の翻訳料の扱いについて、憲法調査会の場で論議することが必要である。
しかし、89条の趣旨は、財政民主主義の観点から、公金支出の不当な利用・濫費を防止し、公共の利益に反する事業に公金を支出しないようにするとともに、私的な教育などにたいする公権力の干渉を排除しようとするものである。私立学校は、学校教育法、私立学校法、私立学校振興助成法など各種の監督規定のもとにあり、公金の不当な利用や濫費を防止しうる程度の監督是正は及んでいる。また、国の基準に従って6・3・3制をとりカリキュラムも学習指導要領に基づいて行われており、教育内容は公の支配に属しているといえる。さらに私学助成は私学振興財団を介在させ、財団の人事等を公が行うことで公の支配にあるといえる。「公の支配」に属することはいうまでもない。
私学助成について与党が憲法上問題ありというなら、今の政府は違憲の行為をしていることになる。
私立学校については、公教育をになっており、私学助成は89条だけでなく、憲法26条等の国民の教育を受ける権利や教育の機会均等を実質化するための意味があることもあわせて解するべきであって、私学助成の障害となるから憲法89条の条文をいじる必要はない。
明治憲法=大日本帝国憲法体制下では、地方行政も内務省を中心に中央直轄、知事は任命制で、そもそも地方自治という考え方そのものが存在していなかった。日本の地方自治の出発は、第二次大戦敗戦直後の47年に公布された新憲法=日本国憲法の成立を待たなければならなかった。憲法は、「地方自治の本旨」を定め、地方自治の重要性を提起する点で、地方自治のかけらもない旧憲法と大きく異なっている。
憲法は、92条で「地方自治の基本原則」をうたい、地方公共団体の組織・運営は地方自治の本旨に則って定めると規定している。つづく93条では地方議会を設置し、その議員や首長は住民の直接選挙をもって選ぶべきこととし、94条「地方公共団体の権能」には財政問題について、「財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権限を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」旨、明言され、さらに95条が住民投票の規定になっている。
戦争放棄を宣言した憲法が同時に地方自治を明確に位置づけ、保障するものとなった―この事実には、「二度と再び戦争をしない」という国家的意思・国民合意と地方自治創設のねらいとのはっきりした結びつきが示されている。戦争を押しとどめられず、逆に戦争遂行体制・国家総動員体制を支えた最大の内政的条件は、旧内務省を中心に編成された中央集権体制・一元的内政支配、府県・市町村体制という官治・集権の地方支配システムであったという認識・反省に立って、戦争体制復活の芽を摘み取ってしまうためには内務省の解体は当然として、あわせて極度の集権体制にブレーキをかける地方自治の具体化が必要とされたのである。
そして、分権・自治が民主主義的な国家の本質的な基盤の一つであるとして、「地方自治の本旨」を踏まえた多様で豊かな自治の擁護と強化を求めている。そもそも地方自治については、フランスのトクヴィルが『アメリカの民主政治』で「タウンミーティングの民主主義に対する関係は小学校の学問に対する関係に該当する」と論じ、イギリスの政治家ブライスも主著『近代民主政治』のなかで、「地方自治は、民主主義の源泉であるだけでなく、学校である」と論じているように、民主主義にとって地方自治は極めて重要なものである。憲法は、「民主主義の学校」と称される地方自治を充実させることで、真の民主主義を日本社会に根付かせようとした。
「国と地方公共団体との基本的関係を確立することで民主的で能率的な行政の確保を図り、地方公共団体の健全な発達を保障する」ことを地方自治の目的として掲げ、自治体の中央政府からの相対的な自立と民主的運営を強調している地方自治法が、憲法と同時に施行されたことは、平和と民主主義の点で大きな意味がある。
この第8章地方自治について、自民党・論点整理案は、「地方分権をより一層推進する必要がある」として、地方分権の基本的な考え方や理念を憲法に書き込む必要があるとしている。また、いわゆる「道州制」を含めた新しい地方自治のあり方についての基本的事項を明示するとともに、地方財政における受益と負担の関係の適正化などに関する議論を進め、また、住民投票の濫用防止規定についても更に検討を進めることとしている。しかし、道州制や市町村合併を強調し住民投票を否定する自民党の方向性は、分権・自治を充実強化ではなく、グローバル経済の大競争時代における競争力強化・国家機能の確立、「戦争する国」に協力する地方体制への再編を目指したものといえる。
一方、分権・自治を補強・推進する立場からも、92条の「地方自治の本旨」の意味は曖昧であり、内容を明確に規定すべきではないか、事務の分配の考え方(基礎的自治体優先の原則、国の事務の限定)を明記すべきではないか、地方公共団体を「自治体」或いは「地方政府」に変更するべきではないか、条例制定権の拡大を図るべきではないか、住民の主体的な参加を明確にすべきではないか、財政自主権・自主課税権を明確に位置づけるべきではないか、国に財源保障と財政格差是正の義務があることを明記するべきではないか、地方自治に影響を及ぼす事項について、国に自治体への意見聴取を義務づける規定を置くべきではないかなどの論点が提起されている。
しかし、憲法があるから分権・自治が押しとどめられたのではなく、憲法の理念を無視するこれまでの政治・行政に問題があったのであり、言葉で分権を憲法に規定しても自治の内実が伴わなければ実際は自治性発揮の封じ込めにしかならない。
もちろん中央政府主導の官僚政治の構造を、住民の参加と決定を保障した新しい民主主義のシステムに転換させることは不可欠の課題である。「地方自治の本旨」は、人権の最大限の尊重、住民の住民による住民のための政治、自治体の自主性・事務及び財源配分の優先制を含んでおり、国民主権に基づく民主的な体制を地方行政の部面にとり入れるとともに、国の民主的政治体制の基礎を培養しようとするものである。92条は民主主義・基本的人権をめぐる住民・国民の運動とのかかわりにおいて、その内容が確定し、充填され豊富化されていく「傾向的概念」である。市民や自治体の側からの住民自治創造の運動的積み重ねをとおすことによってのみ、自治を名乗るにふさわしい住民主権の確立=実質化を実現することができる。そのためにもヨーロッパ地方自治憲章や世界地方自治宣言などの国際的な趨勢も踏まえ、住民が自治体を設立するという理念に基づき、自治体のことは自治体が決めるという大原則を規定する地方自治基本法などの法整備を図っていかなければならない。
道州制は、全国を7〜10ほどのブロックの地方制度に改編することであるが、地方庁型、地方制、自治州、連邦型といったようにいくつかバリエーションがあり、道州制の概念そのものが曖昧である。都道府県を超える広域需要について、都道府県の合併を進め連邦制や道州制で対応すべきとの議論が経済界に根強くある。そこには多国籍企業の活動拠点づくりに向けて、従来の都道府県ごとの規制をより広域化し緩和する狙いがある。また、市町村合併後の課題として地方制度調査会等でも検討が進められている。自民党が論点整理案で言及し、民主党が03年マニフェストで打ち出している。
憲法は、自治の単位となる「地方公共団体」の概念規定をしていないが、地方制度を考える際にいちばん大切なのは、憲法の求める「地方自治の本旨」をどうやって実現するかという視点である。都道府県合併や道州制は、住民からも大きく遊離し、行政の官治化と画一化、縦割り行政の悪弊を生じるのではないか、重複行政となるのではないか、新たな市町村合併を呼び起こし、ますます住民自治が失われていくのではないか、憲法の規定する地方特別法に対する住民投票の意義が損なわれるのではないかなどの問題を抱えている。
現行47都道府県は定着しており、近年住民の生活圏域の広がりに伴う行政で扱う課題の広域化や、医療、福祉、地域開発、廃棄物処理や環境保全など一自治体では解決が困難な広域的行政需要は都道府県の協力の推進や広域連合で対応することとし、現行の二層制を維持しながらまず分権の実現を勝ち取ることが先決である。
連邦制や道州制はその上で論議されるべき将来の課題である。その場合も、自主・自立の権限と財源を付与したもので中央集権国家を解体し地方分権=地域主権にするためでなければならないし、住民自治の深化につながるものでなければならない。自治体の在り方・自治の範囲を決定するのは、そこに暮らす住民自身の権利であり、関係住民の主体的選択と自主性を尊重することが大前提である。
現憲法の改正要件について、自民党・論点整理案は、「かなり厳格」であり、「時代の趨勢にあった憲法改正を妨げる一因になっている」としたうえで、「引き続き議論を継続する必要がある」とはしながらも、[1]憲法改正の発議の要件である「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」を「各議院の総議員の過半数」とする、[2]各議院にて総議員の3分の2以上の賛成が得られた場合には、国民投票を要しないものとする、等の緩和策を講ずる(そのような憲法改正を行う)べきではないかなどを打ち出している。
しかし、立憲主義において憲法とは、為政者・国家権力が暴走したり恣意的な統治をしたりしないよう課す、国家に対する規範=縛りのはずである。改正手続きの緩和は、主権者である憲法制定権力者を議会の立法権者と同一視する考えに立つものであり、大きな問題があるといわざるをえない。自民党・論点整理案の主張は、自分たちに不利だからルールを緩和しようとすることであり、縛りをかけられている側から改正条件の緩和を持ち出すことは認められない。
そもそも憲法は、国家の存在を基礎づける基本法であるから、憲法がすべての法の中で最高法規としての性質を有するものであることは当然である。しかし、最高法規としての性質を真に有するためには、憲法の改正に際しては、通常の立法手続によって改正されるのではなく、より厳格な手続きが要求される。そして「憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条第1項)とされることで、最高法規としての性質は完全になる。
日本国憲法が、改正の手続きを厳しく定めている硬性憲法であるのは、基本的人権の保障、国民主権、平和主義という憲法の基本原理を改憲勢力から守るためでもある。
国民主権は、「人類普遍の原理」(前文)に基づくものである。基本的人権は、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(11条)ものであり、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(97条)である。平和主義は、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」(前文)である。そして、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」(前文)とともに、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条)とされている。したがって、96条の改正手続きによっても、憲法の基本原理である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を否定するような「改正」は、内容的にも手続き的にも憲法「改悪」として排除される。憲法の基本精神を変えてしまうような改正(=「改悪」)は、日本国憲法そのものを否定してしまうことになるからである。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3大原理に反する内容に改める憲法「改悪」は憲法自身が許していない。「改正」と「改悪」を峻別しなければならない。
憲法に改正条項があるにもかかわらず、国民投票についての法整備がなされていないことをもって、立法「不作為」ではないかとの主張がある。本来、立法「不作為」とは、ある法律があったり、あるいはあったとしてもそれを改善しなかったりしたために、主権者の権利が侵害されることである。例えば、ハンセン病に関する国の対応にみられたような、憲法が定めている人権などの基本的原理を守るべき法的対応をしていないときにこそ使われるもので、国民生活に不可欠な問題について法的措置を講じていない、あるいは国民生活に損害が生じているにもかかわらず損害の補てんをサボタージュしていることである。しかしかつて選挙制度調査会が内閣に「日本国憲法の改正に関する国民投票制度要綱」を答申し、それを参考に当時の自治庁が「日本国憲法改正国民投票法案」を作成したことがあるが、内閣の政治的配慮によってその国会提出を見送ったという経緯がある。その後も、戦後政治のなかで改憲問題が何回となく登場してきたが、国民の批判や反対で国民投票法案の提出までいたらなかったのである。これは立法府の「不作為」・怠慢ではなく、国民がその制定の必要性を認めなかったということである。国民は一貫して、日本国憲法を支持してきたのであって、改憲が具体的政治日程に上っていない段階で「国民投票法」が存在しなかったことは当然のことである。
現時点でも、憲法の「改正」は国民世論のなかで切実な声にもなっていない。とくに9条について、国民からの不都合を変えてほしいという強い要求・運動は見られない。例えば内閣府大臣官房政府広報室が2004年6月にまとめた「国民生活に関する世論調査」の「政府に対する要望について」では、1位「医療・年金等の社会保障構造改革」67.7%、2位「景気対策」58.6%、3位「高齢社会対策」49.8%、4位「雇用・労働問題」41.3%などであり、憲法改正や郵政民営化に力を注ぐよりも、年金問題や景気・雇用対策など生活関連課題に取り組む要望が高い。差し迫った緊急課題として憲法改正が国民の側から求められているのではないし、国民の憲法改正権が侵害されて、国民投票法の不存在が問題にされているのではない。今回の改憲騒動自体、改憲を意図する勢力の「押しつけ」であり、自衛隊のイラク派兵などの憲法9条を破壊する行為を事実上すすめていき、その限界を突き破るものとしての「9条改憲」準備の進行のなかでの国民投票法制定の動きであり、その政治的意図はきわめて明白である。改憲のための「不作為」をいう前に、日本国憲法の諸原則の完全実施に対する「不作為」こそ重要課題であり、憲法の完全実施がまずなされなければならないのであって、改憲勢力が自らの動きの根拠として立法「不作為」論をいうのは、筋が通らない。
96条は、主権者たる国民の憲法制定権の行使を保障するものであり、主権そのものの行使として公平で最も民主的な手続きで実施されなければならない。そのためには、少なくとも、[1]投票者の意思を正確に投票結果に反映されるようにするため、全体を一括して投票に付すのではなく、個別の条項ごとに賛否の意思を表示できる提案方法及び投票方法とすべきであること、[2]公職選挙法の規定を横滑りさせるのではなく、言論・表現の自由、国民投票運動の自由が最大限尊重されるよう、戸別訪問や集会の開催、文書の配布、情報媒体を使ってのPR等については、原則自由とするべきであること、[3]通常の選挙における投票権者に加えて、18歳以上の者の投票権や通常の選挙では認められていない重度身体障害者の在宅投票・代理投票を認めるなどできるだけ拡大すべきであること、[4]国民投票の前に、憲法教育をあらためて徹底することが大前提となることはいうまでもなく、国会発議から投票実施まで、国民が十分な情報を収集し、学び、考え、話し合う時間をとるべきであること、[5]国の最高法規たる憲法の改正というきわめて重要な問題を問うのであるから、賛成票の数え方については有効投票数の過半数ではなく、全有権者の過半数或いは少なくとも最低限総投票数の過半数を超えたかどうかで決すべきであること、[6]憲法改正案に反対の者だけに×印を付けさせ、それ以外の投票はすべて賛成であるとみなすといった国民の声を積極的に聞かない方法を採用しないこと、[7]憲法改正案の承認についての意思が十分かつ正確に反映されたことになるよう、投票率が一定割合に達しない場合の扱いを定めるべきであること、などは不可欠の要件といわざるをえない。
しかし、自民党や民主党が中心となった憲法調査推進議員連盟が検討している憲法改正に関する国民投票法案及び国会法改正案については、国民主権の視点が重視されておらず、[1]改憲案の提案権の主体、[2]審議の定足数、[3]各条文または各項目ごとに提案すべきか、全体をまとめて不可分一体として提案すべきかという提案方式、[4]○をつけるのか×をつけるのかという投票方式、[5]投票権の範囲、[6]国民の「過半数」の数え方、[7]最低投票総数についての規定、[8]運動に対する規制などについて見過ごすことのできない多くの問題がある。とくに投票方式について、一括して賛否を問う形態にするのか、「改正」条項ごとに賛否を問う方式にするのかは、改憲発議の際に決めるということになっており、まったく法案の体をなしていない。例えば一括方式では、Aを変えたいがBは変えたくないという場合、賛成票を投じると全部変えられてしまうし、反対票を投じるとAは変えることができなくなり、どちらにしても投票者の意思が反映されないことになり、一つ一つの条項について自らの意思を表示し決定することができるようにすることが必要である。
それだけでなく、「国民投票に関し憲法改正に対し賛成又は反対の投票をさせる目的をもってする運動」が規制対象とされているが、憲法改正について意見を表明するあらゆる行為が対象となるなど、過度に広汎な規制となるおそれがある。とりわけ新聞、雑誌、テレビ等のマスコミ報道及び評論に過剰な規制を設けようとするなど、看過できない問題点が含まれている。
憲法改正の手続法については、それ自体憲法の保障する諸原理に則っていなければならないが、議連で検討されている法案では、国民の自由な議論は阻害され、真に民意を反映する投票は実施できない。しかも改憲ムードをあおり改憲のための法的基盤に格好をつけるためだけに、民主主義的保障もないままスピード成立させられようとしていることは許してはならない。
いずれにせよ、国民投票については、投票方式や投票運動のあり方、「過半数」の意味合い、国民の「承認」の効力発生時期をはじめ議論すべき課題は多く、法的に内容面の十分な精査が必要である。あわせて「改悪」につながらないかどうか政治的に慎重な検討が必要である。同時に、主権者が、自ら責任を負った判断と権利を行使するためにも、国会のなかだけの議論ではなく、国民的にしっかりと議論がなされることが不可欠である。議論なき国会だけの判断による手続法の整備は、断じて認めることはできない。
衆議院憲法調査会は、最終報告書の作成のための分野別の締めくくり討議を終え、参議院憲法調査会も公聴会を経て最終報告書に向けた作業を進めている。しかし、なぜ「最終」報告なのか。確かに憲法調査会の規程では、「憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」、「調査を終えたときは、調査の経過及び結果を記載した報告書を作成し、会長からこれを議長に提出する」旨定めている。しかし本当の意味で広範かつ総合的な調査は終わっていない。憲法を見直したり変えたりするにしても、まずは憲法の内容を完全実施することが大前提である。そのためには、憲法が機能していない部分はどこで、それは何が原因なのかを客観的に明らかにされなければならないが、問い直しは終わっていないどころか始まってもいない。とても調査を終えたなどといえる段階ではない。
また、憲法調査会を憲法改正国民投票法等を審議できるように「衣替え」するための国会法改正が取りざたされている。しかし、あくまでも「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うため」、各議院に憲法調査会が設置されている。憲法調査会の「衣替え」は、「憲法調査会は議案提出権がない」という各議院の議院運営委員会理事会の申し合わせ違反であり、断じて認められない。
自民党・論点整理案は、「現憲法第10章(最高法規)については、国民の憲法尊重擁護義務を含めることとしつつ、その各条文の内容に応じて、『前文』あるいは『国民の権利及び義務』にその趣旨を盛り込むものとし、章としては削除すべきであるとの意見があった」ことを紹介している。
しかし99条において、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に課せられている憲法尊重擁護義務を、国民全般の憲法尊重擁護義務に転換しようすることは、憲法と法律の性格の違いに対する無理解甚だしいといわざるをえない。法律は、「国家権力による強制力を持った社会規範」であり、国民を縛るものだが、憲法は、法律とは異なり、国家権力に歯止めをかけるものである。すなわち憲法は、憲法制定権力である国民と、憲法によって組織される統治権力を区別する。その意味で国民は自らの憲法が権力によって侵害されることのないよう憲法の実現状況を監視することになる。一方、憲法によって組織された統治権力を担う公務員は、憲法の定める人権保障はじめ諸原則に従って権力を行使するものとして、憲法尊重擁護義務を負うことになる。法の支配とは、権力者の意思ではなく、あらかじめ定められた「法」によって国家統治を行うことであり、現在においては、立法権を含めたすべての国家権力が憲法という法に拘束されることを意味する。このことを通じて多数意見でも奪えない価値=基本的人権を保障している。
国民は憲法を制定し、監視する立場であり、公務員は憲法を尊重擁護し憲法に従う義務がある。国民全般の尊重擁護義務への転換は、「国家」に対する国民の義務の拡大を正当化することにつながる。本来、国家権力を制限するために主権者=国民が求める規範が憲法であるにもかかわらず、その意義を転換させ、「国家」に対する国民の義務拡大を正当化しようとすることは認められない。
もともと99条を設けずとも、公務員は、主権者である国民の信託によって、かつ国最高法規である憲法に基づいて公務をつかさどっているのであるから、すべて公務員には憲法尊重擁護の義務が存在するのは立憲主義の原則からして当然である。このことを憲法上の義務としたのは、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の下で、ワイマール体制が崩壊しナチス・ドイツが形成されていった歴史を振り返るまでもなく、権力の座にある者が憲法を軽視・無視して国民の基本的人権を抑圧した事実に対する歴史的反省が込められているのであって、日本国憲法においても、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員の行為によって国民が戦争の惨禍を受けるに至ったという過去の苦い経験からあえて明記したということを忘れてはならない。
日本国憲法の三大原理である国民主権や基本的人権、平和主義は「古くなった」とはいえない。両性の平等が「古くなった」ともいえない。また、憲法は、個人の尊重・幸福追求権、地方自治の本旨など人権や民主主義を豊富化する条項を有している。そういう意味で、戦争の時代の多くの犠牲の上に立って作られた日本国憲法は、二一世紀の時代を先取りする価値を持っている。
一方、個人より国家、権利より義務が強調される今の改憲論は、「改正」と称して改悪を図るものであり、決して私たちの理想の憲法案の提示・実現にはつながらない。「平和的生存権」を徹底して保障するのが現憲法の特徴であり、戦争肯定の生活を強いる条文変更は「改正」ではない。「戦争する国」づくり、国民に痛みを強いる構造改革をさらに一層推し進めようとするための改憲である。しかも、カネにまみれ自浄能力のない政治家が改憲を狙っているのであって、今の政治情勢の下で、今の信頼できない政治家たちに憲法に手をつけさせることで後顧の憂いはないのか。平和だけでなく、個人の尊厳や基本的人権、幸福追求権、生存権、勤労権、地方自治をはじめ憲法のあらゆる面がないがしろにされている今、憲法を見直し変えるにしても、まずは憲法の内容を完全実施することが大前提ではないのか。
「護憲」とは、憲法の条文を墨守することなのではない。憲法の理念・精神、条文を国民の立場で捉え返し、憲法を護らせ、活かし、実行し、広げていくことである。条文の「改悪」を阻止することだけではなくて、憲法が人びとの暮らしの中でしっかりと生きていること、脈々と息づいていることでなくてはならない。憲法が危機にある今、「護憲」の意味を今一度しっかりとかみしめて、幅広い護憲勢力の結集を急がなくてはならない時である。
まず数多い憲法違反問題を洗い出し、どこに憲法違反の原因があるのか明らかにしたり、日常の国民生活の中で憲法がどのように扱われているかをきちんと検証したりする取り組みを強化しなければならない。戦後60年を迎え、憲法にかかわって起こった訴訟、社会問題を洗い直してみる必要がある。例えば、25条生存権を求めた朝日訴訟、9条との関わりを求めた自衛隊訴訟、政教分離との関わりを求めた訴訟など、数多くの訴訟が憲法との関係で起きている。これらの訴訟を真摯にみつめ直すことが憲法の精神の具体化を考える上で重要である。
また、法律の制定や政策の立案に当たって、憲法上何か制約になったことがあったのかということも検証してみなければならない。「新しい人権」が今の憲法に規定されていないといった主張もなされているが、憲法が新しい人権の足をひっぱったことがあったのか、本当に憲法によってそれらが進まなかったのか、憲法をよりどころとして工夫してきたからこそ何とかここまでやってくることができたのではないか、などについて真摯に見つめ直す必要がある。
そして、今までの政権が憲法にどう対応してきたのか、政府の憲法記念日の取り組みには寂しいものがあるが、憲法と現実の矛盾をなくす努力が政権の側でどれだけ真剣になされてきたのかを問い直す必要がある。「痛みを伴う改革」で生存権が、リストラで労働基本権が危うい状況にある。メディア規制のための法整備は進められ、「テロ対策」を名目に人身の自由が制約され、ビラ配付への弾圧事件など表現の自由も侵されている。現実に憲法を合わせるというのではなく、憲法が十全に機能していない部分はどこで、それは何が原因なのかを客観的に明らかにすべきである。
現憲法の起草制定に力を発揮した金森徳次郎国務大臣は、「この憲法は末広がり」と述べるなど、現憲法は可能性に満ちたものであることを示唆している。改憲ではなく、憲法の幸福追求権や生存権、勤労権など、憲法の有する理念・価値の具体化によって、暮らしや雇用、将来の安心を確立すべきである。これまでの憲法理論の成果を受け継ぎながら、時代の進展に沿った憲法の革新にもチャレンジしていかなければならない。憲法の理念に基づき、憲法を完全実施するための法整備や政策の豊富化を進める。
日本国憲法の完全実践に基づく平和、福祉、人権などの新しい設計図を明らかにしながら、これからのビジョンについて骨太の論争をいどみ、憲法の持つ価値を現実の中で実現していく積極的な取り組みを展開し、21世紀こそ憲法が光輝く時代にすることを目指していきたい。
市民こそ主権者であり、憲法は政治の「契約書」である。「信託」は決して政治家への白紙委任ではない。いまほど憲法が国民に保障する自由及び権利を国民の不断の努力によつて保持しなければならないときはない。
◎軍隊や軍事力によらない、大規模災害への緊急援助、発展途上国の社会開発への協力、紛争予防の外交努力、医療、教育など非軍事面での貢献策を追求する。
◎日米地位協定の抜本見直しの実現、「基地返還アクションプログラム」の策定、在日米軍基地の整理・縮小・撤去、非核基本法の制定、被爆者援護施策の充実等に取り組む。
◎13条の個人の尊重・幸福追求権を柱に、護憲論の豊富化を図るため、憲法の理念・精神に沿って、「知る権利」や「自己情報コントロール権」、「移動の権利(交通権)」、「患者の権利」など、「新しい人権」を具体化するための基本法や法制度を整備する(政府からの独立性を保障された人権救済機関を創設、障害者差別禁止法の制定、高齢者虐待禁止法の制定、情報公開法・個人情報保護法の抜本改正、環境基本法の抜本改正、アセス法の抜本改正、公共事業チェック法の制定、交通基本法・運輸安全基本法の制定、患者の権利基本法の制定、水基本法の制定等)。
◎「公共の福祉」を大企業の横暴・自由競争の行き過ぎ、独占に対する規制の根拠とするなど、国民大衆の最大幸福の実現のために活用する(消費者保護施策の充実、独占禁止法改正、消費者保護を最優先する「金融サービス法」の制定等)。
◎24条は、家族関係の法律を作るときには、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚しなければならないことを国家に対して指示する規定であり、単身赴任や長時間労働のような、家族的責任を果たせないような働き方を強いる社会環境や企業のあり方こそが問題であり、家族形成を損なう状況に対して、24条に基づく具体的な支援策を求める(選択的夫婦別姓のための民法改正、育児・介護休業法改正、子ども政策の充実、生涯にわたって女性の健康を保障する法律の制定、セクハラ禁止法の制定等)。
◎生存権や労働権規定の内実を、福祉国家から自治分権・市民参加型のものに、さらに「自己実現」保障型の社会権理論へと発展させていくとともに、これら社会権規定を人間らしい生活を保障し、暮らしに安心を取り戻すという憲法規定の本来の趣旨に沿ったものとして活用する(生活保護制度や最低賃金の充実、雇用継続保障法、パート労働法、非正規雇用均等待遇法の制定等)。
◎国会がその権能を十分に発揮し、活発かつ実質的な議論を行い、国民の負託により一層応えることができるように、国の唯一の立法機関である国会の政策立案機能が十分発揮できるようにする。両院の常任委員会調査室、議院法制局、国会図書館の機能、各会派の政策スタッフなど立法府にふさわしい補佐機関の質量両面の充実・権限強化を図るとともに、質問主意書制度や一般質疑、フリートーキング方式、常時の公聴会の開催等の活用、議員発議に必要な賛成者の員数要件の緩和など、国会改革の推進に引き続き取り組んでいく。
◎住民の権利と自治体の役割を明確にした地方自治基本法の制定、自治体への税源移譲や自治体の活動の計画・実施・評価のあらゆる段階への住民参加の保障、情報公開の推進、住民投票の制度化、直接請求制度の改善などを通じ、都道府県と市町村の関係、自治体と住民の関係を改革する取り組みなど、市民や自治体の側からの新たな地方分権推進・地方自治確立の運動を進める。
◎公務員の憲法尊重擁護義務は、憲法を大切にするといった程度のことではなく、憲法の定めることを積極的に実現していくことでなければならない。その意味で公務員の憲法尊重擁護の実施状況のチェック、15条の公務員の選定・罷免権の実質化の法整備を図る。

 

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