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[ 668] 「真のゆとり教育」が生んだ18歳天才プログラマー トレンド-インタビュー:IT-PLUS
[引用サイト]  http://it.nikkei.co.jp/trend/special/interview.aspx?n=MMITzx000004022008

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上野 康平氏(うえの こうへい) 千葉大学理学部2年生。情報処理推進機構(IPA)の未踏ソフトウェア創造事業で三次元画像処理システムを開発し、史上最年少の18歳で「天才プログラマー/スーパークリエータ」として認定された。小・中学時代を米国で過ごし、帰国後高2で大学に飛び級。趣味は料理とピアノ。
「史上最年少天才プログラマー」はどうやって生まれたのか――。情報処理推進機構(IPA)は昨年10月、3次元画像処理システムの開発で千葉大理学部2年の上野康平さんを「天才プログラマー」に認定した。18歳とは思えないほど落ち着いた雰囲気の上野さん。彼の生い立ちをさかのぼると、日米の教育環境の違いやリアルなコミュニティーの大切さなど日本のIT人材育成のヒントが浮かび上がってくる。
小さいころ、家にあった父のコンピューターでゲームをして遊んでいました。当時ゲームソフトがパソコン通信上で交換されていましたが、設定とかが複雑で、自分でプログラムを書かないと遊べなかったのです。
小学校1年生ごろにはもうMS―DOSのコンフィグファイルをいじったりしてました。父に教えてもらったというより、パソコンやワープロの説明書を一人で読んで――文字の読み書きも説明書で覚えました。辞書の引き方すらわからなかったので、周りの人に聞きました。外で遊ぶより家の中が好きでしたね(笑)。
父の仕事の関係で、小3からの6年間を米国で過ごしました。中3のとき、(天才プログラマーに認定された)今回のプロジェクトで作ったレンダリングソフト(3次元画像を処理するソフト)の一番最初のバージョンを作り、地元のコンクールで入賞しました。
ゲームを作っているうちに、ゲームそのものよりグラフィックに興味が出てきたんです。「ファイナルファンタジー8」の冒頭にきれいな砂浜のシーンがあって、これがCGで作られていると知って驚きました。自分で作ってみたいなと思ったんです。
いまでこそ学生用のCGソフトは8万―9万円のものがありますが、当時はソフト自体が約200万円。機材も特殊なワークステーションが必要で、フルセットで300万―400万円しました。高くて手が出せなかったので作るしかなかったんです。
最初からCGの専門書にあたるのは大変なので、入門サイトを見てひたすら参考にしました。レンダリングをやっている人はネット上にたくさんいて、オンラインコミュニティーがとても助けになりました。
英語のコミュニティーは特に重要でした。最先端の分野になるほど、英語のサイトしかなかったし、論文も英語でした。
米国では科目別に飛び級制度があって、数学と科学で飛び級しました。この仕組みのよいところは、飛び級クラスは1年の3分の1の時間を使って、自分の関心のある分野の研究をしてよいことです。この時間を使ってCGの勉強ができたのです。ある意味「有効に機能したゆとり教育」だったと思います。
そうですね。誰がこのプログラムを書いたんだろう、と感心すると自分より年下だったりすることもありました。中学生や高校生で会社を立ち上げる人も普通にいました。日本にもそういう人材はいますが、米国では技術的に大企業と太刀打ちできるレベルだったりします。
米国と比べたとき、やはり日本が一番ネックになっているのは英語です。私も(天才プログラマーに選ばれたのは)ほかの人に比べて才能があったというわけではなく、ただ単に小さいころから英語が読めたというだけだったとも思います。日本では、例えば大きな書店に行っても、書棚にある一番難しい本ですらその分野の入門レベルでしかありません。
最近はインターネットなどで「知識の高速道路」が整備され、どんな分野であれ一気に高いレベルに行けるといわれていますが、この分野では英語の壁は高いんです。大人であれば英語が読めるからよいのですが、低年齢でITの分野を学ぼうと思っても、英語ができないと途中までしか行けないのです。
● 関連記事天才プログラマー発掘は一定の成果・支援体制のいっそうの強化を千葉大2年生を「天才プログラマー」に認定・IPA

 

[ 669] クリプトン・フューチャー・メディアに聞く(1):「音の同人だった」――「初音ミク」生んだクリプトンの軌跡 (1/2) - ITmedia News
[引用サイト]  http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/21/news015.html

個人の力がメディアになる、そんな時代を生きてきた。「ネットが普及すれば、距離と時間を跳び越えられる気がしてた」。札幌で「初音ミク」を生み出した、クリプトンの歴史。
クリプトン・フューチャー・メディア。この社名に意味はないと、伊藤博之社長(42)は淡々と言う。「当時『なんとかテック』って社名が流行してたけど、そんなありがちな名前じゃ検索に引っかからない気がして。適当な乱数を吐いて、世の中にない名前にしようと」
世界からあらゆる音を集め、世界中に売ってきた。自分が好きだから人も好きに違いない――そんな気持ちで始めた「音の同人」。音を届けた媒体は、最初は手紙とフロッピー。やがてFAXとCDになり、インターネットに代わっていく。
中学時代からエレキギターを弾いていて、音楽は趣味だった。MIDI規格ができ、YMOが人気をさらった打ち込みブームの最初期。音楽とコンピュータが出会ったのは必然だった。「初音ミク」のデザインモチーフにもなったヤマハのシンセサイザー「DX7」や、ローランドのサンプラー「S-50」を使い、音と音楽を創った。
「ビンの音」「階段の手すりをたたく音」。身の回りのあらゆる音をサンプリングし、音楽にしてテープに録音。自分なりの“音”の世界を家族や友人に聴かせたり、楽器店やレコードショップで委託販売した。だが物足りない。もっとたくさんの人に聴いてほしかった。
50ドルほど支払えば、3〜4行の広告が打てる。個人の文字が、活字になって世界中に流通する。英語は得意ではなかったが、「面白そうだったから」広告を出してみた。「日本の音を買いませんか」――受注は期待していなかったから、米国から最初の問い合わせの手紙が届いた時は「相当うれしかったと思う」。
そうするうちに世界中に“音仲間”ができ、一緒に曲を作ったりした。「スイス人が作ったメロディやリズムのMIDIデータをフロッピーで郵送してもらい、僕がアレンジを加えて同じフロッピーに保存して、郵送する。その繰り返し。微妙な作品ができあがったけど(笑)」
フロッピーを使った“音の輸出”は92年ごろの円高で収支が合わなくなってやめてしまった。だが逆に、日本の円高に目を付けた海外の音仲間が「日本で音を売りたい」と持ちかけてきた。
音を輸入して売る。買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったが、やってみることにした。「自分が好きだからきっと人も好きだろうと思って。“音の同人”みたいな感じ」
爆弾マークを出してたびたびフリーズするMac。何度も再起動してなだめすかし、ちまちまと作っていく。それが楽しかった。しかも「僕の作った広告は、ほかより格好よかった」。
アナログ製版が普通の当時。DTPで出力した広告は美しく、印刷屋のおじさんにも驚かれたという。「お兄ちゃんこれ、どうやって作ったの? って」
受注用FAXと、音を収録したCDの在庫は、起業したばかりの知り合いの会社に置いてもらった。昼は大学で仕事、夜は音の受注販売。事業が軌道に乗り、片手間では立ちゆかない状況になってきた。
4月の米オンライン消費、回復基調か米オンライン小売りの売り上げの前年比伸び率が、1けた台に落ち込んだ3月から、4月には15%増へと回復した。

 

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