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極東とは?/ アイフル

[ 530] 極東ブログ
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/

読もうと思って過ごしてしまった本がいくつかある。そして時代が変わってしまって、世の中がその本のことを、まったく忘れたわけでもないのだろうけど(人の心に深く残るのだから)、あまり読み返されない本はある。絶版となり復刻されない(そのまま復刻すればただ誤解されるだけだろうし)。文庫にもならない。それはそれでよいのかもしれない。世の中とはそういうものだし、そういうふうに世の中が進むのにはそれなりの意味もあるのだろうから。ただ、私はあまりそうではない。
もういちど二人で走りたい浅井えり子 「もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」(参照)は読むつもりでいて失念し、いつかあっという間に時が過ぎた。私が沖縄に出奔したころ話だ。癌になって余命いくばくという佐々木功は前妻と離婚し、教え子の浅井えり子と結婚した。純愛のような話題にもなったし、私は引いた奥さんは、愛川欽也の前妻でもそう思ったが、偉いものだなとも思った。ただ、こういう話に仔細はあるだろう。気にはなっていたけど、関心をそこに向ける余裕はなかった。
浅井が日本電気ホームエレクトロニクスで佐々木の指導下に入ったは22歳のころ。佐々木は37歳か。まだ30代だった。厄年の前でもありいろいろな焦りはあっただろうと思う(小学生くらいのお子さんがいたのではないか)。37歳の男にとって22歳の女はたぶんよほど幼く見えたのではないか。
佐々木は岩手県立美術工芸高校(現岩手県立盛岡工業高等学校)卒業後いったん職についてから22歳で東洋大学に入学し箱根駅伝などで働いた。その後、リッカーを2年で退社し、東洋大学陸上部の監督となる。28歳であろう。監督時代に結婚したらしい。30歳過ぎくらいだろうか。そして奥さんは学生のランナーだっただろうか。なんとなくだが、8つくらい年下の女性を思う。お子さんは二人いる。
佐々木と浅井がコーチと選手ということで意識し出すのは、本書では82年のペナンマラソンとのこと。その頃浅井は鉄欠乏性貧血になり、食事に注意をしない彼女に佐々木が激怒し、指導を強めるのだが。
一年間も指導を受けて、まともな食事ひとつできなかった私の、口だけの報告では信用できないらしく、夕食をのぞきにアパートを訪れるようになる。練習が終わると、夕食のチェックのために私のアパートに来て、そのままビールを飲みながら、二人で陸上の話をする。そして十時になると帰っていく。それは、しだいに、日課になっていった。
単純に言えば非常識きわまりないのだが、佐々木という人は、真性の陸上馬鹿であったし、すべてをそこにつぎ込んでしまう人でもあった。が、私はそれを否定しないまでも、少し残余を思う。
この関係の描写は、本書が出て15年してみると、ある種時代に取り残された、薄気味悪い印象もある。だが、この関係性の風景はそう昔の風景ではない。
「俺は、悪いことをしているわけではないのだから、コソコソする必要はない。本気でおまえを強くしてやりたいんだ」
口ごたえして殴られたことは数え切れない。私自身、思ったことを我慢できない性格なので、ついついよけいなことを言ってしまい、怒られた。監督の殴り方はハンパじゃないの。唇が切れたり、顔が腫れて、会社を休まざるをえなかったこともある。
何度も傷つけられた復讐というわけではけっしてないのだが、実をいうと、私も監督を何度となく”痛い目”にあわせている。ビールは好きだが、すぐ酔っぱらってしまう私は、酔うと始末が悪い。あるとき、陸上部の飲み会の帰り、歩けなくなった私がいきなり「おぶって」と、酔っている監督の後ろから抱きついて、アスファルトの上にモロに顔面から倒してしまい、監督の額にダラダラ血が流れるほどのスリ傷をつくってしまった。またあるときは、酔った私に突き飛ばされ、そのはずみで、店のビールケースで胸を打った監督は、肋骨にヒビが入り、しばらく痛みに苦しんだ。
浅井は84年名古屋女子マラソンで4位、84年東京国際女子マラソンでは2位となりトップランナーの名声を得る。そのころは、二人とも田町勤務となり毎朝笹塚で落ち合って走りながらの通勤となった。浅井24歳、佐々木41歳。「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)の出た年だ。ある意味で、二人の絶頂期だったかもしれない。
浅井は30代に入り、長いスランプのような状態に陥る。同棲ということはなく佐々木は十時には自分の家に帰るということではあったが、すでに彼らは事実上の内縁関係にあったと見てよさそうだ。佐々木はこう言う。
「いま、ここで逃げ出してしまったら、すべてが中途半端に終わってしまい、何も残らなくなるんだぞ。それじゃ世間から、不倫のレッテルを張られたままで終わってしまう。何でもう少し、がんばれないのだ」
男として最低の言葉だなと私は思う。結局、佐々木という人間は浅井を自分の理論のための実験として見ていただけなのだろうかとすら思う。ある意味不快な気持ちにもなるが、彼らの人生はそこで終わらないからこの言葉が女から漏れた。
浅井の意地だろうし結局は愛というものだろうと思うと同時に、そこでしばし、いやそれは佐々木の愛かもしれないと思い直し、「愛」というキーワードにある困惑を覚える。
なんなのだろうと私は思う。人生は物語ではない。しかし、物語のようにしか見えない人生というものがある。
厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。ある程度生きてみると、致死の病というのは、天災のように不運でもあり、そしてどことなく物語のようでもある。精神科医頼藤和寛は世間の悩みを飄々と聞きつつ、自らを蝕む癌も知らずに「人みな骨になるならば―虚無から始める人生論」(参照)を書いていた。彼は53歳で死んだ。
理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。
なんとく走り出した。「極東ブログ: [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」(参照)を書いてたころは自分が走るとは思っていなかった。水泳も依然やっているし、それほどスポーツしたいとか体を鍛えたいわけでもない。ただ、なんとなく走り出したのだった。
もちろん、無理はできない。悲しいかな、俺、50歳だし、気が付けば。初老の部類か。健康のためならウォーキングだろう、普通、と思うのだが。まあ、いいや。シューズを買って、ウェアを買った。俺って、走れるのだろうか。走ってみた、もちろん、走れないことはない。無理はきかないだろうなと思いつつ、歩道を4キロを走る。へぇ、走れるか。このまま、走るのだろうか。わからない。
私は中学・高校と陸上部にいた。選手になる気はなくて、小児喘息だった自分がどのくらい体を動かせるかみたいな感じでやっていた。訓練すればクラスで2番目くらいの俊足なる。へぇと思った。その後は、陸上みたいなことはしていない(と思っていた)。50歳で走ってみると、当時のことを思い出した。14歳とか15歳の自分。そんな自分が自分のなかに生きているような感じもする。
いちおう走り方は知っているし、無理する気もないのだが、それでもこの間時代は変わったので、ランニングとかのセオリーも違うかもしれない。参考書とかないだろうか。一般向けでいいからと探した。わからない。
金哲彦のランニング・メソッド アマゾンでつらつらと見ながら、いかにもスタンダードで評判良さそうなので「金哲彦のランニング・メソッド(金哲彦)」(参照)という本を買ってみた。読んでみた。わからない。読者評に「小難しいことは一切書いてなく、『肩甲骨、丹田、骨盤』の三つを意識する、をしっかりと守ることで綺麗なフォームで歩け、走れるようになるといいます」とあり、たしかにそう書いてあるのだが、はて? 丹田? なんだか中級・上級者向けの書籍なんだろうか。そのわりにはあまり理論的なことは書いてないような気がする。自分には合わなかったのだろうか、それともいずれ役に立つときがくるだろうか。金哲彦という人もまるで知らない。その世界では偉い人なんだろうか。いや私は何にも知らないな。
ゆっくり走れば速くなる佐々木 功 そういえば思い返したのだが、以前「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)を読んで感銘を受けたことがある。いつのころだろう。この本が出たのは84年なのでそのころには違いない。その頃、自分は走っていただろうかと思い出して、ああ、皇居の回りとか少し走っていたことを思い出した。なんか記憶が消えているな。この本は実家にあるか処分してしまったか。ただ、読後の記憶からするとLSD(Long-Slow-Distance)でよいという以上のプラクティカルな話はなく、どちらかというと選手向けだったような気がした。水泳とかサイクリングも取り入れろとか。
ゆっくり走れば速くなる浅井えり子 そうしてアマゾンを見ていて、佐々木の指導を受けた浅井えり子の「ゆっくり走れば速くなる(浅井えり子」(参照)を見つけた。私はけっこう浅井えり子が好きだったのだった。お弟子のスジからお師匠の本を、あるいは愛というか夫というかまあ、そういう情熱か、いずれにせよ、理論がプラクティカルにリニューされているといいなと思って読んでみた。佐々木の本とはすごく違っているという印象があった。そして佐々木の本よりわかりやすい。なるほどそうだったのかと思うことがいろいろあった。特にLSDは自分が想定したよりはるかに遅いし、遅いことで身体を意識させる……フェルデンクライスみたいだなと。これは参考になった。ただ、後半の選手向けのトレーニングは私には要らないし、50歳向けでもない。なにより医学的な知見はないなと。もうちょっとスポーツ医学的な部分が知りたい。
賢く走るフルマラソン田中 宏暁 そこで次に読んだのが「賢く走るフルマラソン―マラソンは「知恵」のスポーツ(田中宏暁)」(参照)。この人についてもまったく知らないけど、お医者さんらしいし、47歳から初めて今では60歳近いらしい。なんかためになるのではと思った。ためになった。なるほどねということがいろいろあり、自分なりにアレンジしてみた。LSDとは書かれていないが、LSDの考え方とも矛盾しないので、本は買ったけど迷うだけに終わったということにはならなかった。こちらの本もフルマラソンを意識しているので、当面私には関係ないし、あとお医者さんの割にそれって医学?みたいな仮説も入っているので、ある程度は自分なりの科学知識で差し引きして読んで参考にした。
スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと小田伸午 ついでなので、ランニングという文脈ではないけど、話題だったし水泳とかで勧められたりもしたので「スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと(小田伸午)」(参照)も読んだ。これが微妙な本だった。著者はスポーツ医学の第一人者らしいのだが、これってどっちかというとトンデモ本ではないのかという印象がぬぐい去れない。ただ、それをいうなら佐々木功のLSDの本も当時はトンデモ本かもしれないと思ったし、浅井えり子という実践者がいなかったらトンデモ・セオリーだったかもしれない。この本については実によくわからん。私がフェルデンクライスで学んだことと違うことが多いように思えるのもそうした抵抗感だろうか。ちょっとまいった。
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[ 531] 極東ブログ
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/

読もうと思って過ごしてしまった本がいくつかある。そして時代が変わってしまって、世の中がその本のことを、まったく忘れたわけでもないのだろうけど(人の心に深く残るのだから)、あまり読み返されない本はある。絶版となり復刻されない(そのまま復刻すればただ誤解されるだけだろうし)。文庫にもならない。それはそれでよいのかもしれない。世の中とはそういうものだし、そういうふうに世の中が進むのにはそれなりの意味もあるのだろうから。ただ、私はあまりそうではない。
もういちど二人で走りたい浅井えり子 「もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」(参照)は読むつもりでいて失念し、いつかあっという間に時が過ぎた。私が沖縄に出奔したころ話だ。癌になって余命いくばくという佐々木功は前妻と離婚し、教え子の浅井えり子と結婚した。純愛のような話題にもなったし、私は引いた奥さんは、愛川欽也の前妻でもそう思ったが、偉いものだなとも思った。ただ、こういう話に仔細はあるだろう。気にはなっていたけど、関心をそこに向ける余裕はなかった。
浅井が日本電気ホームエレクトロニクスで佐々木の指導下に入ったは22歳のころ。佐々木は37歳か。まだ30代だった。厄年の前でもありいろいろな焦りはあっただろうと思う(小学生くらいのお子さんがいたのではないか)。37歳の男にとって22歳の女はたぶんよほど幼く見えたのではないか。
佐々木は岩手県立美術工芸高校(現岩手県立盛岡工業高等学校)卒業後いったん職についてから22歳で東洋大学に入学し箱根駅伝などで働いた。その後、リッカーを2年で退社し、東洋大学陸上部の監督となる。28歳であろう。監督時代に結婚したらしい。30歳過ぎくらいだろうか。そして奥さんは学生のランナーだっただろうか。なんとなくだが、8つくらい年下の女性を思う。お子さんは二人いる。
佐々木と浅井がコーチと選手ということで意識し出すのは、本書では82年のペナンマラソンとのこと。その頃浅井は鉄欠乏性貧血になり、食事に注意をしない彼女に佐々木が激怒し、指導を強めるのだが。
一年間も指導を受けて、まともな食事ひとつできなかった私の、口だけの報告では信用できないらしく、夕食をのぞきにアパートを訪れるようになる。練習が終わると、夕食のチェックのために私のアパートに来て、そのままビールを飲みながら、二人で陸上の話をする。そして十時になると帰っていく。それは、しだいに、日課になっていった。
単純に言えば非常識きわまりないのだが、佐々木という人は、真性の陸上馬鹿であったし、すべてをそこにつぎ込んでしまう人でもあった。が、私はそれを否定しないまでも、少し残余を思う。
この関係の描写は、本書が出て15年してみると、ある種時代に取り残された、薄気味悪い印象もある。だが、この関係性の風景はそう昔の風景ではない。
「俺は、悪いことをしているわけではないのだから、コソコソする必要はない。本気でおまえを強くしてやりたいんだ」
口ごたえして殴られたことは数え切れない。私自身、思ったことを我慢できない性格なので、ついついよけいなことを言ってしまい、怒られた。監督の殴り方はハンパじゃないの。唇が切れたり、顔が腫れて、会社を休まざるをえなかったこともある。
何度も傷つけられた復讐というわけではけっしてないのだが、実をいうと、私も監督を何度となく”痛い目”にあわせている。ビールは好きだが、すぐ酔っぱらってしまう私は、酔うと始末が悪い。あるとき、陸上部の飲み会の帰り、歩けなくなった私がいきなり「おぶって」と、酔っている監督の後ろから抱きついて、アスファルトの上にモロに顔面から倒してしまい、監督の額にダラダラ血が流れるほどのスリ傷をつくってしまった。またあるときは、酔った私に突き飛ばされ、そのはずみで、店のビールケースで胸を打った監督は、肋骨にヒビが入り、しばらく痛みに苦しんだ。
浅井は84年名古屋女子マラソンで4位、84年東京国際女子マラソンでは2位となりトップランナーの名声を得る。そのころは、二人とも田町勤務となり毎朝笹塚で落ち合って走りながらの通勤となった。浅井24歳、佐々木41歳。「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)の出た年だ。ある意味で、二人の絶頂期だったかもしれない。
浅井は30代に入り、長いスランプのような状態に陥る。同棲ということはなく佐々木は十時には自分の家に帰るということではあったが、すでに彼らは事実上の内縁関係にあったと見てよさそうだ。佐々木はこう言う。
「いま、ここで逃げ出してしまったら、すべてが中途半端に終わってしまい、何も残らなくなるんだぞ。それじゃ世間から、不倫のレッテルを張られたままで終わってしまう。何でもう少し、がんばれないのだ」
男として最低の言葉だなと私は思う。結局、佐々木という人間は浅井を自分の理論のための実験として見ていただけなのだろうかとすら思う。ある意味不快な気持ちにもなるが、彼らの人生はそこで終わらないからこの言葉が女から漏れた。
浅井の意地だろうし結局は愛というものだろうと思うと同時に、そこでしばし、いやそれは佐々木の愛かもしれないと思い直し、「愛」というキーワードにある困惑を覚える。
なんなのだろうと私は思う。人生は物語ではない。しかし、物語のようにしか見えない人生というものがある。
厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。ある程度生きてみると、致死の病というのは、天災のように不運でもあり、そしてどことなく物語のようでもある。精神科医頼藤和寛は世間の悩みを飄々と聞きつつ、自らを蝕む癌も知らずに「人みな骨になるならば―虚無から始める人生論」(参照)を書いていた。彼は53歳で死んだ。
理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。
なんとく走り出した。「極東ブログ: [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」(参照)を書いてたころは自分が走るとは思っていなかった。水泳も依然やっているし、それほどスポーツしたいとか体を鍛えたいわけでもない。ただ、なんとなく走り出したのだった。
もちろん、無理はできない。悲しいかな、俺、50歳だし、気が付けば。初老の部類か。健康のためならウォーキングだろう、普通、と思うのだが。まあ、いいや。シューズを買って、ウェアを買った。俺って、走れるのだろうか。走ってみた、もちろん、走れないことはない。無理はきかないだろうなと思いつつ、歩道を4キロを走る。へぇ、走れるか。このまま、走るのだろうか。わからない。
私は中学・高校と陸上部にいた。選手になる気はなくて、小児喘息だった自分がどのくらい体を動かせるかみたいな感じでやっていた。訓練すればクラスで2番目くらいの俊足なる。へぇと思った。その後は、陸上みたいなことはしていない(と思っていた)。50歳で走ってみると、当時のことを思い出した。14歳とか15歳の自分。そんな自分が自分のなかに生きているような感じもする。
いちおう走り方は知っているし、無理する気もないのだが、それでもこの間時代は変わったので、ランニングとかのセオリーも違うかもしれない。参考書とかないだろうか。一般向けでいいからと探した。わからない。
金哲彦のランニング・メソッド アマゾンでつらつらと見ながら、いかにもスタンダードで評判良さそうなので「金哲彦のランニング・メソッド(金哲彦)」(参照)という本を買ってみた。読んでみた。わからない。読者評に「小難しいことは一切書いてなく、『肩甲骨、丹田、骨盤』の三つを意識する、をしっかりと守ることで綺麗なフォームで歩け、走れるようになるといいます」とあり、たしかにそう書いてあるのだが、はて? 丹田? なんだか中級・上級者向けの書籍なんだろうか。そのわりにはあまり理論的なことは書いてないような気がする。自分には合わなかったのだろうか、それともいずれ役に立つときがくるだろうか。金哲彦という人もまるで知らない。その世界では偉い人なんだろうか。いや私は何にも知らないな。
ゆっくり走れば速くなる佐々木 功 そういえば思い返したのだが、以前「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)を読んで感銘を受けたことがある。いつのころだろう。この本が出たのは84年なのでそのころには違いない。その頃、自分は走っていただろうかと思い出して、ああ、皇居の回りとか少し走っていたことを思い出した。なんか記憶が消えているな。この本は実家にあるか処分してしまったか。ただ、読後の記憶からするとLSD(Long-Slow-Distance)でよいという以上のプラクティカルな話はなく、どちらかというと選手向けだったような気がした。水泳とかサイクリングも取り入れろとか。
ゆっくり走れば速くなる浅井えり子 そうしてアマゾンを見ていて、佐々木の指導を受けた浅井えり子の「ゆっくり走れば速くなる(浅井えり子」(参照)を見つけた。私はけっこう浅井えり子が好きだったのだった。お弟子のスジからお師匠の本を、あるいは愛というか夫というかまあ、そういう情熱か、いずれにせよ、理論がプラクティカルにリニューされているといいなと思って読んでみた。佐々木の本とはすごく違っているという印象があった。そして佐々木の本よりわかりやすい。なるほどそうだったのかと思うことがいろいろあった。特にLSDは自分が想定したよりはるかに遅いし、遅いことで身体を意識させる……フェルデンクライスみたいだなと。これは参考になった。ただ、後半の選手向けのトレーニングは私には要らないし、50歳向けでもない。なにより医学的な知見はないなと。もうちょっとスポーツ医学的な部分が知りたい。
賢く走るフルマラソン田中 宏暁 そこで次に読んだのが「賢く走るフルマラソン―マラソンは「知恵」のスポーツ(田中宏暁)」(参照)。この人についてもまったく知らないけど、お医者さんらしいし、47歳から初めて今では60歳近いらしい。なんかためになるのではと思った。ためになった。なるほどねということがいろいろあり、自分なりにアレンジしてみた。LSDとは書かれていないが、LSDの考え方とも矛盾しないので、本は買ったけど迷うだけに終わったということにはならなかった。こちらの本もフルマラソンを意識しているので、当面私には関係ないし、あとお医者さんの割にそれって医学?みたいな仮説も入っているので、ある程度は自分なりの科学知識で差し引きして読んで参考にした。
スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと小田伸午 ついでなので、ランニングという文脈ではないけど、話題だったし水泳とかで勧められたりもしたので「スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと(小田伸午)」(参照)も読んだ。これが微妙な本だった。著者はスポーツ医学の第一人者らしいのだが、これってどっちかというとトンデモ本ではないのかという印象がぬぐい去れない。ただ、それをいうなら佐々木功のLSDの本も当時はトンデモ本かもしれないと思ったし、浅井えり子という実践者がいなかったらトンデモ・セオリーだったかもしれない。この本については実によくわからん。私がフェルデンクライスで学んだことと違うことが多いように思えるのもそうした抵抗感だろうか。ちょっとまいった。
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