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中止とは?/ アイフル

[ 268] 絶叫機械+絶望中止
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/screammachine/

はてブのタグを改めて見ると、赤裸々に「かっこいいぜ」と「せつない」と「映画」のサイズがでかいので恥ずかしかった。恥ずかしがっていても仕方ないので、かっこよくてせつない映画を紹介します。あと、いっつも書いてることですが、ここを読んでいるひとは本当に買い物をしないひとが多いので、おれは今まで一回もアフィリエイト収入というものを得たことがありません。それに紹介されただけでDVD買うひとが少ないのもわかるし。レンタルアフィとかあればいいのに。というか金は要らないからとにかく観てほしいとかいろいろあるわけですよ。以上、言い訳終わり。
一度書いたことあるけど、今ふりかえることのできるベストはこのへん。洋画ばっかりなので随時埋める。
時計じかけのオレンジ1971英スタンリー・キューブリック中学生のときにエロそうと思って観た。映画タグの横に、暴力ってタグがある。この映画のせいです。かっこいいぜ。
マルホランド・ドライブ2001米デイヴィッド・リンチ中学生のときに『イレイザーヘッド』を観て、全然意味わからないけどすげーと思ったけど途中で寝た。くやしいから何度も観る、途中で寝る。寝なくなったころにはこの映画があった。ダメなやつがもがく話はせつないです。
トゥモロー・ワールド プレミアム・エディション2006英アルフォンソ・キュアロンなくしたものを探すときに想像するのは、もうどこにもなくて絶対に見つからないんじゃないか、ってこと。何を引き換えにすればそれが見つかるのか教えてほしいけど、知りたくないようなそんな感じ。
ファイト・クラブ (ベストヒット・セレクション)1999米デイヴィッド・フィンチャー大切なものを見つけるということは、いろいろ他の何かを捨てるということで、それはとてもかっこいいけどせつない。だって、本当になくなったものは帰ってこないから。
未来世紀ブラジル1985英テリー・ギリアムやっと見つけた大切なものが、ってさっきから同じことばっか書いてるな。この映画はスタイルからしてかっこいい、真似したくなる気持ちはわかる。
キリスト教って便利そう、と思いながら、でもキリスト教って言ってもいろいろあるし、狂信的な福音派になっちゃったら気持ち悪いし……と思っているみなさん、キリスト教の導入に迷いがあるなら、無料版を使ってキリスト教の便利さを体験してみませんか?
この簡易版キリスト教「ライク・ア・フィッシュボーン」は、読むだけでインストール完了。しかも脳のレジストリは書き換えられないため、他の宗教ソフトや哲学ソフトなどをインストールしても衝突しません。ただし、一度インストールすると死ぬまでアンインストールできないので、そのことだけはご了承ください。
まずはじめに、インストールするための領域を確認してください。およそ10キロバイトが空いていれば大丈夫です。製品版の場合は「聖書(旧約、新訳)」を別途購入し、全て暗記していただくことになりますが、簡易版は世界中の多くのキリスト教信者がそうであるように、聖書に何が書いてあるかを知らなくてもインストールできますのでご安心ください。
「キリスト教をインストールするなら、科学的思考法はアンインストールしておいた方がいいんじゃないか」と思われる方も多いでしょう。しかし、科学的思考法を全てアンインストールしてしまうと、レジストリが改変され、他のソフト、たとえば「資本主義」の「利便性への欲求」「消費衝動」などが使用できなくなることがあります。その場合、簡易キリスト教が勝手にアップグレードして「アーミッシュ」になりますのでご注意ください。
どうしても矛盾が怖いと思われる方は「科学的思考法」のメニューを開き「不可知論」の適用範囲を上げてください。
その名の通り、キリストを信じるのがキリスト教です。その信じ方はさまざまですが、まずはおよそ2000年ぐらい前に死んだ人がいた、ということを信じてみてください。これは簡単ですね、なぜなら、2000年前だろうが1万年前だろうが、誰かがいて必ず死んだということは推測できるからです。
次に、その死んだ人が良いことを言って尊敬されていた、ということを信じてみてください。「汝の隣人を愛せ」とか「この中で罪のないものだけが石を投げなさい」とか、そういうトンチみたいなことを言った、というのを信じるのもわりと簡単ですね。ここで間違っても「私は親兄弟と喧嘩させるために来た」とか「師匠はバッタと蜂蜜ばっかり食ってた」とかそういうのは信じないでください。何が何だかよくわからなくなります。
さいごに、良いことを言っていて死んだ奴は、良い奴だった、ということを信じてください。ここには思考のアクロバットがありますが、とりあえず目をつぶってください。キリストはナイスガイでした。信じますね?
では次の項に進みます。キリストを信じることができたら、次は彼が救世主であることを信じましょう。
彼は罪人として殺されました。ここで大切なのは、三日後に復活したとか、地獄の窯が開いて七つの目を持った山羊が、とか、そういうのはとりあえず知らなくていい、ということです。まずは「罪人として殺された」ということを信じてください。
次に、彼が殺された理由を想像してください。普通、死刑に遭うには何かひどいことをしたと思いますね。でも前項でインストールした通り、彼はナイスガイですから悪いことをするはずがありません。ですから、彼が殺されたのは何か理由があったはずです。悪いユダヤ人がたくらんだから? NO! 政治家が彼を恐れたから? NO! そういう雑多なことはあとで知ればいいことです。
彼の死後、信徒が言うには、人間というのはとても罪深いので、彼はその罪をおっかぶって死んだらしいのです。つまり、あなたやぼくの罪を償うために、彼は死んだらしいのです、およそ2000年ぐらい前に。もしですよ、あなたの身近にいるひとが「なんか皆が悪いことしてるんで、おれが殺されて償うわ」と言って死んだらなんかすごいでしょう。
そういうすごいキリストのお父さんが、神様です。神様はみんなのお父さんなんですが、キリストの場合はもう直でお父さんですし、キリストだし神です。何を言っているのかわからないかもしれませんが、何、三位一体なんてわかる方が無理というものです。
キリスト教の神様はとてもすごいので、一人しかいません。でも全部知ってるし、何でもできます。この世界を作ったのは神様ですし、この世界を終わらせるのも神様です。とにかくすごいので、悪いことをした奴とか絶対に許しません。死んだら地獄に落ちます。ただ残念なことに、生きている間は何もしてくれません。キリストが磔になって「オヤジ、何で見捨てた?」と訊いたときも、答えてくれませんでした。昔は鼻から炎を噴き出したり、相撲をとったりと、面白いおっさんだったのですが、キリストが真面目すぎたせいでしょうか、およそ2000年ぐらいからこっち、あまり人前には出たがらないようです。
まあとにかく癇癪持ちなので、怒らせると大変な目に遭います。この神様から赦されないと、死んでからひどい目に遭います。でも生きている間に神様を信じれば、全部赦してくれます。全部です。信じるまでにやってきた全ての罪が赦されます。
これで簡易キリスト教はインストール完了です。これからは何か悪いことをしても「神様ごめんなさい!」と思えば全て赦されますし、キリストはいつでもあなたのことを見守っていて、代わりに死んでくれます。しかし、これはあくまでも簡易版のため、死んだあとのサポートはございません。地獄に落ちたくない方は、製品版をご購入下さい。
製品版の購入は、お近くの教会などでどうぞ。ただし、製品版にはあらゆる種類がありますので、よくパンフレットを読み込んで、自分に合ったソフトをインストールしてください。
また、この簡易版を使ってみて「これマッチポンプじゃない?」「罪の記憶は消えないんだけど」と思った方には「科学的思考」のプラグインである「無神論」のインストールをお勧めします。ただしこのプラグインはあくまで「神がいないという前提で推論を組み立てる」ためのものであって「神の不在を証明する」ことはできません。ご了承ください。
生きていると、自分の罪を思い出して耐えかねるときがある。それは他人から見れば小さなものかもしれない。誰かを言葉で傷つけた、誰かの損になることをした、誰かの失敗を嘲笑った、誰かに嘘をついた。反省も後悔もいつまでも続いている、でも、罪を犯した自分の心はうす汚れてしまって、もうもとには戻らない。
ねえ旦那、おれは救われますか?祈れば救われますか?死んだあとで救われる?じゃあ祈らねえ。いまこの心にさかさ棘みたいに突き刺さっているのが消えないなら、祈る意味はねえんだ。ああ、生きることが罪なんですか、じゃあ旦那はなんで生きてなさるんで?
乱暴な書き方をすれば、罰というのは、人間の価値を量って、そこから犯した罪の分だけ引く、というものだ。
だから、与えられる罰と、罪を犯すことでかぶるかもしれないリスクを比べたとき、与えられる罰の方が重ければ、誰も罪なんて犯さないはず。これが「刑罰による抑止力」というやつだ。で、いまきみが思った通り、とうぜんながら、与えられる罰の方が軽いというだけで、平気で罪を犯す奴がいる。
それで、日本では江戸時代、リスクをとんでもなく高くして抑止力効果をあげようとした。馬に乗せて市中を引きまわしてから殺して三日放置したり、刺青を入れたり鼻をそいだりして、誰でも見たらすぐに「ああ罪を犯すとこうなるんですな」とわかるようにしていたんだ。
でも、昔の刑罰にあった「リスクを高めよう」という発想は、よく暴走した。中世のヨーロッパじゃ魔女狩りなんてものがあって、魔女に選ばれたひとは無条件に拷問されて殺された。裁判もなけりゃ弁護士もいない、リスクを高めるのが目的なんだから、いなくて当たり前だ。罰を、罰を与えなきゃいけない、でなきゃ罪を犯す奴が出てきてしまう。それは人類に何千年も続く、被害妄想みたいなもんだった。
そこへ、近代ってやつがきて、話せばわかる、って言いだした。反省したり、後悔しているやつの鼻をそいではいけない、人権というものは罪を犯した者でも、死ぬまで続くのだ、ということになった。それで、刑罰の方法が変わった。
昔は鼻をそいだ。いまは、金と時間をそぎおとす。死刑ってのは、その両方をうばってしまう、というふうに考えればいい。もう、ものを盗んだからら手を切られたり、浮気をしたから石をぶつけて殺されたり、ウソをついたから舌を抜かれたりはしない。今でもそういうことをしている国の刑罰を見ると、おれたちはぎょっとしたり、あれは未開なのではないか、などと思ったりする。でもおれたちは(世界中のきみたちは)ほんの百年前まで同じことをしていたし、外から見る分には、時間を奪うのも鼻を奪うのも、たいして違いがあるわけでもない。
そう、外から見る分には。近代になって、刑罰は、罰を与えられる側の内面に影響するものになった。懲役刑というものが考えだされ、刑務所は罪人に罰を与えるための箱じゃなくて、罪人を矯正して、反省させるための施設に変わった。ひどく反省した罪人は模範囚と呼ばれ、運が良ければ外にも出れた。
もちろん、近代なんてものは、地理的にも歴史的にも前後するし、未だに人権の意味がわからないひとも世界にはいっぱいいる。でもとにかく、いまはそういうことになっている*1。
キリスト教の発想こそが、民主的な司法制度、とくに懲役というシステムを発明したのだから、一概に感情的に否定は出来ない。つまり、人間が犯した罪を人間ごときが裁いてはいけない=結局のところ神しか裁けないのだから、悪いことをした奴はとりあえず一時的に隔離した上で、あとで社会復帰させてやりましょう(許してやろう)、というわけだ。
こういうアイデアは一神教の宗教社会の中でこそ生まれ、容認される。今でも死刑制度が、日本よりはるかに凶悪犯の多い欧米で嫌われている理由もこのあたりにある。逆に、日本で死刑を容認する人が多い理由も、日本がキリスト教社会の共通認識(人が人を裁くのはゴーマンである)を持っていないからに他ならない。
『ミスト』は、当の彼らさえ忘れつつあったこの考え方をガツンと直球でぶつけてくる。それはすなわち、現代アメリカがそれほどまでに傲慢になってしまったぞという警告であり、猛省せよというメッセージにほかならない。このサイトの読者にはしつこいほどに伝えているが、『ミスト』も近年の米映画(みんなで反省しよう!)の流れの中にあるということだ。
別にここで十字軍が二百年間も殺しまくった話をするまでもないだろう。いっぱい殺したし、いっぱい殺された。たいせつなのは、この自称映画批評家が何を言おうとしているのか、ということだ。間違った知識を使って言いたいことは何か。
おれは以前から、政治や宗教がひとの目を曇らせることについて悲しい思いをしていた。映画が、国境や言語を超えて通じるものなら、なんで特定の思想が映画を貶めたりできるだろう。
『ミスト』を見ると、観客も映画を作ってきた人々も、神に対しいかに傲慢であったか気づかされる。本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよと、この映画は突きつけてくる。
違う違う、そのセリフを言った役柄を、そのあと劇中では何と呼んでいたかおぼえてる? 「あのジム・ジョーンズがやらかす前に」って言ってただろう? ジム・ジョーンズ、人民寺院で914人とともに天国へ昇ろうとした男。敬虔なキリスト教徒はアブない、神の名のもとに何でもやるぞ、あのセリフはそういう意味だ。
だからといって、簡単に「福音派批判」などと受け取ってもいけない、そんなに単純な話ではないのだ。たとえば『猿の惑星』が印象的なのは、そのラストシーンが珍しいからではない。最初から最後までヘストンは取り返しのつかないことを何とかしようともがく、そして、もがいたあげくに最悪な結末を見る。おれたちはやらかした、取り返しのつかないことをやっちまった。もう何も、もとには戻らない。心に刺さったさかさ棘が抜けない。神も悪魔もない、やらかした罪だけがそこにある。誰も引き受けてはくれねえのだ。
特定の宗教思想を喧伝するための映画だと決めつければ、なるほど安心はできるだろう。でもそれでは映画は何のためにあるの。政治や宗教の長い槍があって、その先にちょこんと映画が乗っている。それ、何が面白いのだろう。
自分の考えや、理想や、言い逃れが根底から揺るがされて、それで何の結論も教えてくれないから映画ってすごいんじゃないのか。スタッフロールの最後まで、ただ聴こえてくる装甲車やヘリの音。それがどんな意味だと決めつけて、映画はもっと面白くなるんだろうか。この前田有一というひとは映画批評家ではない、なぜなら彼は映画を見ると必ずこういうふうに矮小化して、つまらないものにしてしまうからだ。答え合わせを劇場にしに行くくらいなら、家でクロスワードパズルでもしていればいい。
もし誤訳ばかりする翻訳家がいたら、計算間違いばかりする会計士がいたら、きみはそれに金を払うだろうか、時間を割くだろうか?
でも、もしきみが、今までに超映画批評を参考にして映画を観たことがあったとしても、おれはきみを軽蔑したり、軽んじたり、蔑んだりはしない。なぜならその罪に気づいたきみは、もう充分に罰を受けているからだ。きみは間違った解釈に騙され、映画を楽しむ権利を不当に奪われた。
もう罰を受ける必要はない、ブラウザのブックマークから静かに「超映画批評」を消して、もっときみのためになる映画の感想サイトを見つけよう。映画はもっと豊かで広い意味をもつ、そのことを教えてくれるひとが、どこかにいるだろう。
*1:こうして、刑罰に代わって抑止力を担うことになった警察は、事件を未然にふせぐために町中をウロウロしている。あのひとたちはウロウロするのが仕事なんである。
劇場を出て、ロビーで一服していると、喫煙所にいる連中はみなうつむいて、どこか遠くを見ていた。隣にいる男が、おれに話しかけたそうにしていたが、うつむいてやめてしまった。女がふらりと便所へ行った、男は煙草に火をつけながらその背を見送った。終わっていなかった、何も終わってはいなかった。全ては地続きで、あれはまったくそのまま現実だった。いろんなことが頭に浮かんだ、涙が浮かんでは消えた。ふらふらと家に帰り、ふと気になってある映画サイトの感想を読んだ。
それは、何ひとつ受け入れることのないまま、自分の安心できる結論を導き出した感想だった。あの映画を観ても何も変わらないやつがいる。拝啓ジム・ジョーンズ、あなたが死んでからも世界は善意で満ちています。心底うんざりしながら、それでも絶望だけはすまいと思った。
画面に映っているのは、どんなときでも、誰かが見た景色だ。誰も見ていない、つまり写っていないものは、見ることができない。画面の外にあるものを、おれたちは画面の中に映っているものから推測する。誰か、というのは登場人物に限らない、知人かもしれないし、他人かもしれないし、ひとによっては神様かもしれない。そこらへんの監視カメラのときもあれば、あらゆるところに偏在する空気だったりもするだろう。それがドキュメンタリーであれば、当然のようにカメラマン、もしくはカメラマンに指示を出した監督の見ている景色だ。いや、もしかしたら、それは見たくない景色だった可能性だってある。とにかく、それは誰かが見た。
そして、映画を観るということは、その誰かが見たものを、そのまま同じように見るということではない。
ちょっと直観的には反対に思えるかもしれないけど、普通の映画は客観視点で描かれているから、感情移入できる。
喋っている誰かの顔、その次にうなずいている誰かの顔。二人をとらえたショットがなくても、なんとなくおれたちは二人が会話しているように思う。それだけじゃない、思い出したときには、自分に向かって誰かが語りかけていた、という記憶だ。だから、主観映像というのは、あまり使われない。観客が充分に「おれはいま劇中のこいつの気持がわかるぞお」と思ったときに使うと効果的ではあるけれども、それでもやっぱり、見ている最中はなんだか変な感じがしてしまう。簡単に言うと、気持ちが覚める場合が多い。どうしてだろう。それは、自分が自分のことをどう思いだすかを考えてみればわかる。
たとえば、パソコンの前から立ち上がり、冷蔵庫に行って飲み物をとって帰って来た、とする。さて、今その行動を思い出すとき、見えていた風景をそのままビデオを見るように思いだすひとはいるだろうか。たぶん多くのひとは、言葉として思い出すだろうし、ボンヤリと行動の軌跡を思い出すひともいるだろうし、クォータービューで思い出すひともいるかもしれないけど、主観映像で思い出すひとはあまりいない*1。思い出すとしても、コマ切れの画像としてだろう。なぜなら、画像と言うのは、文章や記号に比べて膨大なデータ量があるし、それが映像ともなればびっくりするぐらい脳に負担をかける。だったら最初から映像を記録するのはやめればいい。脳みそが便利なのは、見えたものを別のかたちに圧縮して記録しておけるからだ。
Aは、リンゴを見て、リンゴのもやもやした外見と、リンゴ、という言葉を覚える。そしてそれを言葉でBに伝えると、Bはリンゴという言葉(圧縮ファイル)を脳内で解凍し、頭の中にあるリンゴの画像を呼び出す。それは、Aの見たリンゴではないし、Bの思ったリンゴをAは知ることができない。でも会話は成立する。
そして、おれたちが物事を「連想」できるのは、主観映像で物事を記憶しないからだ。言葉やボンヤリした軌跡は、頭の中で勝手に解凍されて、似たようなものを同じみたいに感じ、ものの違いを極端に感じたりさせる力を持つ。この記憶の仕組みと伝達の仕組みがなかったら、おれたちはこんなに便利な世界には生きていなかっただろう。
映画というものは、記憶みたいに「圧縮した情報」をうまく見せることで「何かを思い出している」かのように誤解させることができる。おれたちは、自分の記憶を刺激されながら、見たことはないけれど思い出して泣けるような景色が広がっているのを、見る。
だから、ナレーションですべてを説明されると、頭の中で解凍されたものと違ったり、強制的に解凍されたような気がして、イラっとするわけだ。また、連想できない唐突すぎるラストシーンに感動したり、伏線のない超展開に爆笑するのも同じ仕組みだ。でも、この場合は評価が二分することが多い。それはきっと「連想できないけど観たあとで思い出すとわかる」とか「いくら考えてもつながらないのに気持がいい」とか、観終わったあとで考えることができるからだろう。
「主観映像」には「記憶の捏造」をぶっとばす力がある。なぜなら、そこには何かを見ている誰か、が映し出されないからだ。すると、今見えている景色は、カメラを覗いている誰かの見た記憶であって、おれの記憶じゃない、というふうに感じてしまう。誤解の余地がない。そこを、さまざまな工夫で劇映画として完成させたところに「クローバーフィールド」のすごさと悲しさがある。
カメラマン役が見るものを、映画は延々と見せ続ける。はじめ、彼は自身の役割に懐疑的だけど、ある出来事をきっかけに自分の役割に気づく。ここからおれはこの映画を涙なしには観られなかった。しかも、冒頭出てくるシーンによって、この映画で語られる出来事は、あるテープに上書きされたものだということがわかる。つまり、この映画は、映画の大半を撮影するカメラ役のものではない、ということだ。彼はある時ふと現れて、去っていく。あるじのいないウェディング馬車がとぼとぼと進む。去っていく。もどらない。物語から感じる面白さが、ビデオカメラで撮っている、という形式と切り離せない。世の中には、別の形式に翻訳可能なものと、そうでないものがある。クローバーフィールドは後者だ。
でもそれは万人に伝わる面白さじゃない。たとえば超映画批評というレビューサイトではこんな書かれ方をしている。
しかし悲しいかな、わずか数ヶ月とはいえ諸外国での公開が先行したため、私の必死の努力も報われず、大勢の人がすでにネタバレを食らっていることだろう。これが○○による大災害を描いた映画だと、○○の部分を知っている方 にとっては、本作はほとんど何の新味も意外性も感じられない、平凡な出来である。素人映像に最新鋭のVFXという組み合わせは新鮮だが、それだけのことだ。
○○に入るのが「怪獣」であることを知って、何の問題があるんだろうか。むしろそれが実際にはあり得ない災害であるところに、最大の意義があるのだけれども、その辺はどう折り合いをつけるつもりなんだろうか。地震などの自然災害や、テロなどによる人的災害を描かないことを選んだとき、相手は怪獣以外に何があるだろう。
でも、逆に考えれば、このひとには、あの映画の面白さが全然伝わっていなかった、ということだ。むしろそういうひとに対するサービスシーンが、よけいなお世話になってしまった。それはとても悲しいことだし、もっと無様な脚本であったとしても、ちゃんと客観映像のある怪獣映画として作っていたら、彼らの評価は高かったのかもしれない。
911を持ち出すまでもなく、主観映像を使うということは、そういう観客を切り捨てるということだ。この映画に感情移入して、興奮して、面白いと思ったひとには想像し難いことかもしれないけど、そういう観客はけっこういる。
この映画にあるのは「死んだ奴の見たものを、きみにも見せてやろう」という意地の悪さ(そして死んだ奴に対する底なしのやさしさ)だ。そういうものが嫌いなひとは、まず主観映像を見て「これはおれの見た景色だ」とは思わない。ああ、誰かが見た景色ね、はいはい。と納得して、自分から切り離す。引用したもののように、災害の原因が身近でないことに安心するし、それを対岸の火事として平凡と言い放つ。これを「想像力の欠如」と簡単には笑えない。ある一定数のひとびとが、この愚にもつかない感想を参考にしているのかと思うと、絶望的な気持になる。
連続殺人犯の素顔をドキュメンタリー・タッチで描いてゆくベルギー産の異色作。生活の為に平然と殺人・強盗を犯し、良心の呵責を微塵も感じていない主人公ベン。彼の生きざまをドキュメンタリー映画の撮影クルーがフィルムに収めてゆく。犯罪哲学を饒舌に語り、詩を朗読し、カリスマ的な魅力を放つベンにいつしか彼の行為を記録する側にいたクルーは、それに参加するようになってゆく……。
*1:例外はもちろんあって、ビデオの編集をしているときなどはフレーム単位で自分の見た映像を思い出したりもするけど、それは結局何度も見ているからおぼえただけであって、ここで話している「情報の圧縮」という工程をスッとばしただけの話だ

 

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