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繰り広げとは?/ レイク

[ 86] ITmedia +D Games:極寒の地で繰り広げられる戦いは壮絶で、やけどしそうなほどに熱かった (1/2)
[引用サイト]  http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0612/27/news004.html

実存感さえ覚える精緻なグラフィック。荘厳な雰囲気を漂わせるオーケストラサウンド。綿密に織られたストーリー。カプコンが精魂をそそぎ込んで作り上げた「ロスト プラネット」は、さながら大作SFアクション映画のようで、その圧倒的な迫力と臨場感に魅了される。
この「ロスト プラネット」は、三人称視点のアクションシューティングゲームで、雪と氷に閉ざされた惑星を舞台にしたSFテイストの強い作品。そのストーリーや世界観をかいつまんでおくと、舞台となる極寒の星は「EDN-3rd」といい、人類がその星に入植を開始したことに端を発している。その途上で、人類は原住生物「エイクリッド」(AK)の襲撃を受け、一度は撤退を余儀なくされるものの、AKに対抗できる新兵器「バイタルスーツ」(VS)の開発によって、再び入植を試みる。その主な目的は、AKが体内に持っている「サーマルエナジー」を新たな資源として活用することにあった。
一方、第一次入植の撤退で取り残された人類は“雪賊”(台詞の中では「Snow Pirates」と話している)と呼ばれ、AKとの戦いを続けながら、雪賊同士の勢力争いも繰り広げていた。そんな折、ある雪賊によって、凍り付いたVSの中から一人の青年が救出される。それが、本作の主人公“ウェイン”だ。しかし、彼は記憶の大部分を失っており、覚えているのは自分の名前と、父を殺した“ミドリメ”というAKのことだけ。ウェインは、助けてくれた雪賊とともに、失った記憶のカギとなるミドリメを追う……。
氷の中からウェインを見つけ、救出した雪賊の3人。右から、ユーリ、ルカ、リック。彼らは、この星からAKの脅威を無くすために戦っていて、VSを操縦できるウェインに協力を仰ぐ
ウェインを演じるのは、日本でもおなじみのイ・ビョンホン氏。最新の3Dスキャナー技術を使ってモデリングしているだけあって、本当にそっくり
このプロローグを見るだけでも、さまざまに想像がふくらむ。例えば、星の名前の“EDN”が英語のEden(楽園)のようにも見えるし、“3rd”は第3惑星と見て取れるあたり、何やら意味深長な感じ。この“人類”というのがどこから来たのかも、あえて触れられていない(記憶違いでなければ、ゲームの初めから終わりまで「地球」という言葉はどこにも出てこなかったはず)。また、凶暴な原住生物の体内に、実は有望な資源があったという設定も興味を引くところで、冒頭からその独特な世界観に引き込まれる。
ゲームモードは、「キャンペーンモード」と「オンラインバトルモード」の2つ。1人プレイ用のキャンペーンモードでは、プレイヤーが主人公のウェインを操作して、与えられたミッションを順にこなすことでストーリーが進んでいく。ミッション内容には、敵を倒しながらルートを切り開いて目的地までたどり着くものと、ターゲットとなる敵を倒した時点でクリアとなるものがある。どのステージもウェインが単身で戦うことになるので、かなり過酷だが、それを支えるのが先述のサーマルエナジーと、ウェインの右腕に装着されている「ハーモナイザー」という装置だ。
AKの体内にあるサーマルエナジーは、倒すと外に放出され、ウェインが腰に付けているタンクに蓄えられる。このサーマルエナジーを継続的に消費しながらスーツの生命維持機能を働かせることによって、全てが凍り付くような極限環境下でも人間が活動できる、という設定なのだ。また、敵からのダメージを受けるとハーモナイザーが自動的に起動し、サーマルエナジーを体力(LIFEゲージ)に直接変換してくれる。その意味で、サーマルエナジーの残量と体力は同義とも取れるが、ハーモナイザーによる体力の回復には少し時間を要するので、その最中に大きなダメージを負うと、回復が追いつかずに死亡してしまうこともある。
AKを倒すと、その周囲に赤い水溜まりのようなものができるが、これがサーマルエナジー。一定時間が過ぎると消えてしまうので、早めに回収しなければならない
フィールド上のところどころに置かれた「データポスト」を起動することでも、サーマルエナジーを獲得できる。同時に、周辺のマップがレーダー(画面右上)で確認できるようになる。起動すると暖かそうな光があふれ出すので、初めはストーブかと思った……
ミッションの開始前に武器の選択や装備の変更などはなく、基本的には現地調達。フィールド上にマシンガンやショットガンなどのさまざまな武器が落ちているので、それを拾って使うことになる。所持できる数は、銃器が2種類、手投げ弾系が1種類の、合計3種類まで。また、生身で戦うだけでなく、VSに搭乗して戦えるのも本作の大きな魅力だろう。このVSの作りが実に精巧で、金属的な質感といい、重量感といい、本当に存在するかのようなリアリティを覚える。VSについては、まず元となるCGから精巧なフィギュアを作り、それに錆や汚れまで施したうえで写真に撮って、ゲーム中のVSのテクスチャに使っているというから驚く。空中でホバリングできるものや、二足歩行からバイク型に変形するものなど、VSにもさまざまな機体があって、それぞれに操縦性も異なるので、操作していてとてもおもしろい。
武器はフィールド上に落ちているものを拾って使う。武器には人間用とVS用があるが、生身の状態でも強力なVS用武器を使えるのがおもしろいところ。ただし、VS用の武器は大きくて重いため、移動速度が極端に遅くなる
AKには体のどこかに必ず弱点(オレンジ色に光る部分)があって、そこを集中的に攻撃すると素早く倒せるうえ、獲得できるサーマルエナジーの量も増える。この「ドンゴ」というAKの場合は、尻尾の部分が弱点
細部まで精巧に作られたVSは、まるで実物がそこにあるかのよう。リアリティを出すために、実際にフィギュアまで制作したのだとか
人間の状態とVSに搭乗した状態の2通りがあるので、操作がややこしくなるかと思ったが、移動やジャンプ、武器使用といった基本的な操作が共通化されていることや、初めてVSに搭乗するときは、その操作方法が必ず表示されるので、操作で迷うことは少ない。オプションで照準の移動スピードや視点切り替え方法などを微調整できるが、わたしは初期設定のままでも操作しやすいと感じた。
上方向に照準を向けてXボタンを押すと、アンカーを射出し、ジャンプでは届かない高所にも飛び移れる。また、ロープにぶら下がった状態で銃を撃ったり、AKにアンカーを打ち込み、密着した状態で攻撃するなど、さまざまな応用が利く
ライフルを持った状態で方向パッドを押すと、スコープから覗く画面になる。敵に気づかれる前に、遠距離から狙撃することも可能だ
キャンペーンモードにミッションがいくつあるかは伏せておくとして、初プレイではクリアするまでに1時間以上かかるミッションも多くあった。難易度もかなり高めで、EASYモードでもまだ難しいと感じる。AKも、雪賊などの人間も、敵がとにかくアグレッシブで、まるで容赦ない。このゲームでの戦いは、本当に熾烈だ……。
スクウェア・エニックスは5月23日、2008年3月期の決算発表会を開催した。和田洋一社長は発売が心待ちにされている「ドラゴンクエストIX」について改めて「本年度中に発売できればと思う」と語った。
「アオイシロ」レビュー:アオイシロ――神秘的な伝奇物語と少女たちの恋愛に感じる妖しい魅力に悶えるべし!
少女たちの絆を描いた和風伝奇アドベンチャーゲーム「アオイシロ」がPS2で登場。女の子同士の恋愛模様(または友情)を描いた、いわゆる“百合”要素満点の本作の萌え度はいかに!?
連載第58回は、「頭脳戦艦ガル」(デービーソフト)。あの、みうらじゅんさんも“一番”と評した伝説のクソゲーですが、実際にプレイしてみると、新たな発見があったりなかったりするものです。
筆者の生きているうちに二度とお目にかかれないと思っていた「新機軸ゲーム」がここに登場。しかしこれを進化と呼ぶのか!? 脳が退化した気分に陥る“不思議ちゃんパズル”だ。
この連載ではたいがい昔のことばかり書いてますが、今回は一気に戦国時代まで飛んでみます。連載第60回は「太閤立志伝」(コーエー)。個人的に思い入れのあったゲームなんで、ゆかりの場所もあちこち回ってみました。
「ダークセクター」レビュー:銃を撃つのはもう飽きた!?――多彩な特殊能力が楽しい新感覚アクションが登場
SIMPLE 2000シリーズでその名を馳せるディースリー・パブリッシャーから、完全新作の3Dアクションゲームがリリースされた。ブーメランのような特殊武器を使った戦闘は、いったいどんな感じなのか、さっそく遊んでみました。
鉄道に興味はなくともゲーム好きなら必ず名前を知っている、日本を代表する箱庭ゲー「A列車で行こう」シリーズ。地味ながらも愛され続けている「A列車」の秘密とは何か? シリーズ初心者にして鉄道マニアでもない筆者が体当たりでレビュー!?
みなさん、回復薬グレート飲んでますか。こんがり肉食べてますか。というわけで「モンスターハンターポータブル 2nd G」です。前作からあらゆる面でボリュームアップ、バージョンアップしてます。これはもう、本当にお祭りなのです。
連載第59回は、「ギャラクシーウォーズ」(ユニバーサル)。スペースインベーダーやギャラクシアンに比べると、やや知名度の低いゲームですが、あの必殺技“炎のコマ”を生んだゲームとして名を残しています。ゲーム自体も当時としては個性的でした。
「ニッポンのあそこで」って何だ? それは世にも不思議な地図エンタテインメント。地図+ゲームな本作には、あれやこれやと遊び心と便利性を追求した要素が盛り込まれている。プレイヤー次第で長く付き合えるであろうエデュテイメントタイトルだ(※記事の後半には本作を活用したプチ旅行記もあります)。
新連載「ヒライタケシの『投げる前から変化球』」第2回目は、前回に引き続きセガの鈴木裕氏にご登場いただく。日本のゲームクリエイターの質は変わってきているのか? それとも自らが変革を求めなくなったのか?

 

[ 87] 西南戦争を観る:熊本で繰り広げられた日本史上最大の内戦
[引用サイト]  http://rekishi-seinansensou.kurashi-joho.net/

西側から望む再建成った熊本城天守閣。石垣「武者がえし」が美しい。 西南戦争は、明治10年(1877)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした我が国最大の内乱で、明治維新の総仕上げとしての役割を果たした戦争です。
当時熊本城は、谷干城を司令官とする熊本鎮台が置かれており、薩軍の攻撃目標の第一。ところが薩軍到着の2日前に熊本城はナゾの炎上をとげ市内の中心街も一面火の海になってしまいました。
日本史上最大の内戦でありながら、語られることが比較的少ない西南戦争について、これを機会にまとめてみました。
ゆかりの名所、史跡なども記載していきますので、熊本にお出かけの際は、お立ち寄りいただけるとうれしいです。
”鬼官兵衛”と恐れられつつも人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた旧会津藩家老・佐川官兵衛。西南戦争に際し、官軍側で参戦。阿蘇郡南郷谷で有志を募り結成した「南郷有志隊」とともに、西郷軍(薩軍)に挑みましたが、明治10年南阿蘇村長陽黒川で無念の戦死を遂げました。
(北海道新聞より引用)札幌市西区の琴似屯田子孫会は、琴似屯田兵が出征した西南戦争(一八七七年)から百三十周年を記念して、十月十六日から三泊四日で子孫会企画の研修旅行「西南戦争ゆかりの地巡り」を行う。西南戦争で屯田兵は自らの存在をかけて奮戦、多数の戦死、戦病死者を出しただけに、子孫会は「祖先の苦難の道のりをしのび、琴似のまちづくりをあらためて誓う旅になる」と話す。
熊本市小島下町の市指定文化財「明治天皇小島行在所」。明治維新から間もない一八七二(明治五)年、西国巡幸の天皇が宿泊し、西郷隆盛も随行して訪れたという歴史を持つ。しかし、市中心部から離れた場所にあることなどから見学者はごく少ない。地元の保存会は「今年は西南戦争百三十年で、明治を振り返る節目の年。小島の文化財にも注目してほしい」と呼び掛けている。
官軍墓地には、西南戦争で、大隅地域で戦った政府軍(官軍)の戦没者74人が葬られている。出身地は山形や秋田、福岡、熊本など各地。県内で唯一現存する官軍墓地だ。
同会は、山形県温海(あつみ)町(現鶴岡市)との相互交流を通じて、同町の住民たちが戊辰戦争で戦死した薩軍を慰霊していることを知り、官軍墓地での慰霊祭を計画。同会が、荒れ果てていた官軍墓地を改修した1977年以来の慰霊祭となった。
沢会長は「怨念(おんねん)を超えた友好の場として、県唯一の官軍墓地をアピールし、今後は年1回の慰霊祭を行いたい」と話していた。
いよいよ、西南戦争で焼け落ちた本丸御殿の修復が山場を迎える熊本城。築城400年を記念して、ずいぶんまえから進められてきた熊本城復元工事のクライマックスです。いま熊本では、築城400年祭が繰り広げられています。熊本に旅行を計画されるときは、ぜひスケジュールを確認することをおすすめします。
築城400年を迎えた熊本城(熊本市)で現在復元作業が進められている本丸御殿大広間「昭君(しょうくん)の間」の障壁画張り付け作業が5日、始まった。
部屋を豪華絢爛(けんらん)に飾った障壁画は狩野派の絵師の手による。金箔(きんぱく)の下地に中国の絶世の美女、王昭君などを描いた。本丸御殿は天守閣などとともに西南戦争(1877年)で焼けた。障壁画は焼失前の江戸末期に描かれたスケッチ画や同時代の建造物を参考に復元。
作業には京都から職人が来て、梅や菊などの花々が描かれた90センチ四方の和紙の障壁画を板にのりで張り付けた。板は今後、天井に60枚がはめ込まれる。
西南戦争の弾丸が打ち込まれたクスのテーブル、見てみたいですね。市役所で使われているなら、しっかり保存していただきたいものです。実際に使われている、というのがいいですね!
鹿児島市城山の大クスで作られた市役所市長室の応接テーブルには、1877(明治10)年の西南戦争で撃ちこまれたとみられる弾丸が残っている。一般にあまり知られていない“生きた証”を一目見たいと26日、鹿児島史談会の池田純副会長(59)ら会員4人が市役所を訪れた。
歴史の真実を知ることは、現代に生きる私たちとその未来にとって、とても大きな意味を持ちます。史料の発見は、非常に貴重なことだと思います。
1877年(明治10年)の西南戦争に呼応して福岡の変を起こした旧福岡藩士族と、その源流で幕末に弾圧を受けた筑前勤王党に関する新たな史料が子孫宅で見つかり、福岡市博物館(早良区百道浜)に寄贈された。
西郷隆盛直筆の書も含まれ、幕末・維新期の西郷と筑前勤王党のつながりを裏付ける新史料として注目される。
県内の七十五歳以上の高齢者らでつくる新老人の会熊本支部(伊佐二久代表世話人)は今年五月、熊本市の熊本市民会館で、西南戦争で敵味方の区別無く負傷者の治療にあたった医師鳩野宗巴(はとの・そうは)を題材にした舞台劇「医聖宗巴は立ち上がる」を上演する。出演者はほとんど素人だが「宗巴の博愛精神を多くの人に伝えたい」と張り切っている。
地獄峠と呼ばれたほど激しい戦いが行われた、田原坂の間道となる吉次峠。しかし田原坂の陥落から12日後には吉次峠も官軍の手に落ち、薩軍はこれ以降敗走を続けることになります。
3月19日、官軍警視隊8百余名が軍艦春日、鳳翔、孟春、丁卯など4隻ほか合計7隻に分乗して日奈久南の洲口と八代西方に上陸、直ちに進撃を開始。
庁舎は当時の御船小学校(八勢の石橋を造った御船の豪商・林田能寛の旧宅)があてられましたが、わずか2日で県庁は熊本城内に移ることになりました。
松橋の戦いで負傷し熊本の病院にいましたが、人力車で御船に入り前線の兵を激励しました。敗戦の責を負って自決(40歳)。>
戦いに傷つき倒れていた3人の薩軍兵士を土地の人が手厚く看護、手当ても空しく死亡した。ねんごろに弔ってお墓を建てました。
意気天を衝く出発の時、そして熊本から退く時、二度にわたって西郷隆盛は軍の本陣を置きました。寺は人吉市街戦で焼失。その後再建され、境内には人吉隊や西郷の遺霊碑が建っています。
「阿蘇の山里秋ふけて・・・」で始まる落合直文の一大叙事詩。西南戦争がテーマ。南阿蘇村、長陽の数鹿流ケ滝の前に建っています。
作家の津本陽氏もその著作の中で「西郷隆盛の家系は後醍醐天皇の中心菊池武時の流れを汲んでいる。元禄元年に肥後から来て、島津家の臣となった」と述べている。
菊池市七城町大字砂田字西郷という集落がある。そこがふるさと。豊かな田園地帯、古い社の境内に大きな石碑と説明板が建っている。
西郷家は菊池家が滅んだあと薩摩藩に仕えた。西郷隆盛が一時奄美大島に流されたとき自らを「菊池源吾」と名乗ったことはよく知られている。
現山鹿ホテル前の看板明治10年(1877年)に起きた西南の役で、山鹿口の戦いは、田原坂の戦いと並ぶ激しいものでした。西郷隆盛は、福岡方面から南下してくる政府軍を阻止するため、山鹿を重要な戦略拠点とし、豪将桐野利秋率いる四番大隊を山鹿に差し向け、本陣を敷きました。
薩軍が山鹿に入ってきたのは同年2月25日です。それから、数回にわたる激戦を経て、3月20日に田原坂が落ち、薩軍が山鹿を撤退するまでの24日間、ここが作戦基地となりました。本陣は梅の井旅館(山鹿ホテルの西隣)に置かれ、桐野利秋は、戦いの前半、ここにいました。3月21日には、政府軍が山鹿入りします。本営は薩軍がいた梅の井旅館にそのまま置かれ、山鹿口の戦いは終焉を迎えました。
宮崎滔天(とうてん)の著書「熊本協同隊」には、「山鹿は有名なる温泉場なり、すなはち食うに佳肴あり、飲むに美酒あり、加うるに人民の歓迎を以ってす。人々をしてそぞろに賊軍をうらやむの念を生ぜしむ」と薩軍を歓迎した様子が書かれています。
薩軍が山鹿にいたこの間に、日本最初の民権政治がおこなわれました。平川惟一(のぶかず)、宮崎八郎らで組織する熊本協同隊は、西南戦争が勃発すると、薩軍と一緒に参戦します。そそて、山鹿に彼らが理想とした民権政府を作り、地元の野満長太郎を民政官に選出しました。普通選挙により人民総代を選び、総代により町の円滑な政治が行なわれました。しかし、この試みも薩軍や熊本協同隊の山鹿撤退と同時に崩壊しました。
熊本と福岡を結ぶ豊前街道は、当時は戦略的に重要な意味を持つ街道でした。その街道沿いの山鹿もまた、重要な戦略拠点です。山鹿の豊前街道は現在も残り、昔の古い建物も残る、風情のある様相が、往く人の目を楽しませます。
その後、土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となった。このとき、武市半平太と知り合って友人となり、尊王攘夷運動に傾倒する。しかし1866年、藩命で長崎を視察したとき、ここで後藤象二郎や坂本龍馬と交わって、攘夷の不可なるを悟り、次第に倒幕へ傾いていったといわれている。
翌年の廃藩後、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として新政府に出仕。1872年陸軍少将になり、翌年から暫くの間熊本鎮台司令官となる。神風連の乱後、再び熊本鎮台司令官となる。この人事は、祖先に山崎闇斎門下の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば西郷軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。
1877年、西南戦争が起こったときは52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献し、その功績により陸軍中将に昇進。陸軍士官学校長・学習院院長を歴任した。その後、政治家に転身。
1885年伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、条約改正問題で辞任した。後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開した。国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていた。
谷干城は同じ土佐藩の出身者である坂本龍馬を厚く尊敬し、1867年に竜馬が暗殺されたとき、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から竜馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて竜馬の暗殺犯を追ったという。谷は犯人は新選組と決めつけていたという。流山で新撰組局長であった近藤勇を斬首獄門という惨刑に処したのも谷であり、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。1900年、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「竜馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したという。

 

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