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とりわけとは?/ レイク

[ 281] 10+1 web site: 「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへ|八束はじめ
[引用サイト]  http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2004/09/10213917.html

今回は新刊でなくちょっと古い本をとりあげる。原書が書かれたのは1974年で翻訳が出たのはずっと最近だが、それでも2000年である。どちらにしてもいま頃になって、なのだが、それも私がいままで読んでいなかった怠慢の故でもある。この書評欄でいえばソジャの『ポストモダン地理学』(青土社、2003)をとりあげた際にちょっと触れたりしたのだが、そういえばこの本が出たのだっけと気にかかっていたので、眼を通してみたわけだ。その時にも書いたように私の世代にはルフェーブルは懐かしい名前なのだが、そのブームは日本では疾うに去っていて、次の世代、つまり構造主義からポスト構造主義の隆盛で忘れられていた。ルフェーブル自身はこの流れには批判的で、それは本書でもいろいろ書いてあるが、ここのところはまぁ、仕方がない。私としては、例えば、あとにも触れるように、彼のフーコー批判に俄に同調する気持ちはないが、かといってもはやルフェーブルは古いのだから(それは確かにあるんだけれど)、と軽率な引導を渡してしまうわけにもいかない、という気持ちに本書は改めてさせる。それは何といっても、ルフェーブルほど「空間」の問題と直接に取り組み、理論的な大枠を与えようとした思想家は以降誰もいないからだ(そもそも流行だけで思想本を読むなら、読まないほうがましだ)。
この日本語版にはルフェーブルの死後の第4版へのまえがき(レミ・エスによる)が載せられているのだが、そこでは外国語への翻訳には国によってずれがあり、要するに著者の発見の時期もまちまちになる、というようなことが書いてあるが、英語圏ではどうやらルフェーブルは近年のブームらしい(日本みたいに70年前後のブームがなかったということか??あちらでもベトナム反戦とか共通する背景はあったように思うのだけれど)。それはひとつには、ソジャの書評でも書いたように、英米での地理学の分野(そこでは「空間」とマルクス主義の再評価が急である)への影響によるものらしい。ポストモダン地理学の旗手であるデーヴィッド・ハーヴェイなども『ポストモダニティの条件』(青木書店、1999)のような原論的な議論とは別に地域空間(地理)と経済の関連性などを分析している(ほかの例ではドリーン・マッシーの『空間的分業』[古今書院、2000]なんかもある。殆ど地域経済の分析なので、建築畑の読者にはちとしんどいかもしれない)が、こうしたアプローチからもルフェーブルが格好の基礎を供給することは良く分かる。ソジャにもハーヴェイにもルフェーブルの影響は少なからざるものがあった。また社会学でも、ジョン・アーリの『場所を消費する』(吉原直樹+大澤善信監訳、法政大学出版、2003)などを読むと、「なかでも1990年代に影響力をもったのは、バシュラール、ベンヤミン、ルフェーブルらのかなり以前のテクストであった。これらは近年になって再発見され、場所をめぐって隆盛している言説のなかに位置づけられている」などという文章が見られる。
このレミ・エスの前書きにはルフェーブルのキャリアの手短な要訳がある。そのなかで私の個人的な関心を引いたのは(へぇ、そうだったのかぁ!という態のものだが)、彼が70年前後に『空間と社会』という雑誌の編集委員をやっていて、その相方がアナトール・コップだったということである。コップは翻訳もないから、大部分の読者はそういってもピンとはこないだろうが、ロシア・アヴァンギャルドの研究者で、“TOWN AND REVOLUTION(原文は仏文)”は日本でも随分流布したはずだが、私の『ロシア・アヴァンギャルド』(INAX出版、1993)でも何度も言及している。必ずしも同感ばかりにはよっていないが(何しろコップのはあまりにストレートにモダニズムでありすぎるから)、彼の『都市を変革し、生活を変革せよ』(TOWN AND REVOLUTIONの次に書かれたもの/これは英語になっていない)などのスタンスと本書とを比べるといろいろと感慨は深い(ロシア・アヴァンギャルドのキャッチフレーズであった「社会のコンデンザー」なども出てくる)。
ルフェーブルは「空間」に関する知を伝統的に支配してきた認識論(ギリシャからデカルトを経てカントに至る)および数学の流れを、(自分が考えるような)社会的空間の批判には寄与しないものという。つまり心的空間と現実的空間は別であり、前者は生きられた経験からの切り離しの結果得られたものだというわけだ(個々の批判としてはともかく、原則論的には少し明解な切り離しでありすぎるようには思うが)。その結果、認識論的な哲学の省察が基盤を与えられなかった空間の科学を自分が試みてみようというのが本書である。ルフェーブルにとって、空間は「在る」ものではなく(社会的に)「生産される」ものである(これは明解な前提だ)。この生産において、16-19世紀(の西欧)には建築と都市計画と政治に一体のコードがいまだ存在して、このコードが農村と都市の住民に、また権力機関と芸術家に共通の言語活動を与えていたが、今世紀のはじめ(1910年頃と特定化されているが、その理由説明はない)に良識、知、社会的実践、政治権力に共通する空間がうち砕かれた、というのだ。それ以来、ユークリッドと遠近法の空間が消滅し、抽象空間が支配する。空間の表象と表象の空間とが分離し、しばしば対立する。「空間の表象」とは、抽象空間を操作するための技術であり、それを保有するのは一部の専門家たちである(最近の経営工学風にいえば「シンボリック・マネージャー」とでもいうところか)。これに含まれるのは政治家、官僚、学者、そして我らが(じゃなかった、我ら)建築家や都市計画家である。「空間の表象」とは、思考される空間、科学者の空間、社会・経済計画の立案者の空間、都市計画の空間、区画割りを好む技術官僚の空間、社会工学者の空間、ある種の科学的性癖を持った芸術家の空間であって(ここのところは私が『空間思考』(弘文堂、1986)という旧著で、まったく違う角度からではあるけれども、触れた問題とも幾分重なる)、直接に生きられる空間であり、それゆえ「住民」=「ユーザー」の空間である、「表象の空間」と対立する。別にこれは建築家弾劾論ではないので留意してほしいが、ルフェーブルの位置づけでは、フランク・ロイド・ライトが「聖書とプロテスタントの伝統に由来する共同の表象の空間を受け入れた」建築家とするなら、ル・コルビュジエは「専門家の科学主義的で論理化された空間の表象を練り上げた」建築家なのだ(ここのところは、かつての長谷川堯さんの「神殿」と「獄舎」とか「雄」と「雌」という位置づけをちょっぴり思い出さなくもない)。この「抽象空間を支えるのは批判ない『肯定的な』知であり、抽象空間を支持するのは暴力の恐るべき力」である。弾劾論ではないとは書いたが、基調がそうであるのは否定できず、我ら建築家は、マクルーハンによってもはや時代遅れのメディアの使い手と見なされ、ルフェーブルには圧政者(の予備軍というか手先かな?)と見なされ、という状況にあることは??恐れ入ることもないけれども??留意くらいはしておいてほしい、といっておくことにしよう。
ヨタ話(じゃないが)はともかくとして、歴史的に見ればどうか? ルフェーブルはヴェネツィアのような町はどうかと問う。彼によれば、都市は「芸術品」のように意図的につくり上げられたものではまったくない。自然の作品と芸術の志向性とのあいだには超え難い溝があり、歴史的な村落や都市の空間はもっぱら作品の概念に言及するだけで適切に扱うことができるものではない。しかし、1910年以降の空間では、ミクロの空間の生産である建築とマクロなそれである都市計画の分離が行なわれ、ゆっくりと集団の意志によって生成したヴェネツィアとは違って、いたるところで反復が、つまり抽象空間が支配する。革命と合理性に基盤を置いたバウハウスの実践が生み出したのは「世界規模における均質で単調な建築」にすぎない、というわけだ(その張本人の名前がミエ・ヴァン・デア・ロエとまったくのフランス語読み??で殆ど人名不明[ミースのこと]??なのは、まったくすぐれた翻訳をされた斉藤日出治さんにしては??いくら「敵」であっても??ちょっとなぁ、とは思うけど/ついでにもうひとつ、ブルネレスキがブルネルシというのも困る)。
ここのところは、下手をすると懐旧的な都市論と読めなくもないが(それもまったくあたっていないわけではない)、ルフェーブルが空間の表象化の徴候を「視覚の絶対的優位性」、「読解可能なものの支配」に見出していることは押さえておくべきだろう。われわれ建築に携わっている者としては、自分達が手にしている「表象」の技術が両刃の剣であることは承知している(かな?ほんとに)としても、そして古い町は良かったとかいわれても困るとしても、この批判が結構的を射ていることは否定できないのではないか? それは建築のあり方が圧倒的にメディア(パブリシティ)・オリエンティッドになったことに起因している。ルフェーブルは、空間占拠(英語でいうoccupy)されてこそ意味がありしたがって絶対に相対的なのだ、というライプニッツの言を引いている。これは数学的な思惟、つまり抽象的な空間への批判であり、空間の身体性の議論である。生きた身体は基本的な場と空間の目印をまず身体によって設定するわけだが、その身体とは他の身体を前にした身体であり、自我の前に他者がいるということがその前提にある。囲いは内と外を分離し、したがって生命体を「明確な身体」として確立する、だからこの囲いとは相対的な囲いなのだ、とルフェーブルが行なうライプニッツ議論の拡張は見事な運びである。それは、かつてシュールレアリズムに関与し(ルフェーブルの日常生活批判はもともとここに起点があるらしい)、その後身でもあるシチュアショニストに影響を与え(その創始者ギー・ドゥボールはかつてルフェーブルのゼミに在籍した)、最晩年には身体の基盤にあるリズムの問題を議論した(彼の遺作は『リズム分析の要素??リズム認識序説』である)ルフェーブルらしい転回であり、懐旧趣味として斥けられるものではない。耳を傾けるべき議論である。
ルフェーブルがこのような生きられた空間に見出すのは「網状組織」、つまりテクスチャーの複合性であり、それは強調点、根拠地、係留点であるモニュメントを包含する(ヴェネツィアの寺院や広場のように)ものの、全体としてはひとつの意味されるものではなく多面的な意味の地平をもつ。この辺は、現代の実践に携わっているわれわれにはいささかユートピックに響く(それは彼も百も承知に違いないが)。私が思い出すのは、エクリチュール(書く行為)が一部の専門家(エクリヴァン)に独占されているいまの状況に対して、すべての読者がまた書き手でもあるようなユートピックな社会を夢想したロラン・バルトのテーゼである。あるいは「千の台地」でのドゥルーズ/ガタリの「条理空間」に対抗する「平滑空間」という図式にも似ている(「平滑空間」は定住する農耕民族が空間に刻む「条理」に対抗するノマドの空間としてモデル化されている)。しかし、われわれ職能的な建築家はこのユートピア性を咎めることはできない。何故ならわれわれこそ自らの行為のなかにユートピア性を見出していなければ、ただちに抽象空間へ、あるいは商品(スペクタクル)としての空間に陥るべき地点で仕事をしている存在だからだ。実際、われわれがこの議論に対抗しうるのは、この(ブレードランニングすべき)両刃の上でしかない。
これは空間を規定するプログラムの問題でもある。ルフェーブルは建築を資本主義的空間の統一的母胎であり、社会的諸関係を冷酷に凝縮するものとしている。19世紀以来の公共建築の様式(学校、駅、市庁舎、警察、省庁)などは空間のパラダイムを還元するように包み込むものだというわけだが、これらのビルディングタイプは啓蒙期の産物である。ここを分析したのは(ルフェーブルが批判する)フーコーだが、フーコーがそこに見出したのは抑圧と解放の背中合わせ状態だった。権力は遍在し、その両方の可能性をもつ(上記の両刃の議論と同じ)。ルフェーブルの権力論は、もはや教条的なマルクス主義には立っていないまでも、それに比べてより古典的である。フーコーは絶対的な抑圧者も絶対的な解放者もありえないとする(これはル・コルビュジエを引いて述べられている)。空間の表象もまた「権力」のモメントであるが、それはこうした権力のあり方を反映している、と私は考える??建築に携わる者としての自己正当化であることは否定しないが。というわけで、私は必ずしもルフェーブルの立論に100%賛成するわけではないのだが、ここから引き出しうる教訓(われわれは結論を期待するべきではない)はそうした部分的な反駁(あるいは留保)でキャンセルされるようなものではない。あなたが、空間の問題を虚心に考えようとするのであれば、そして建築家こそは空間の専門家であるなどという井の中の蛙のような馬鹿げた思いこみに支配されているのでなければ、30年前のこの書物は依然として有益な宝庫でありつづけるだろう。結構厚い本だが、努力には酬いてくれる本ではある。
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[ 282] バイオ燃料用の代替作物がかかえる怖さ。暖竹、南洋油桐…… - 「国際派時事コラム・商社マンに技あり!」 ライブ版 - 楽天ブログ(Blog)
[引用サイト]  http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/?ctgy=10

いちばんかっこいい役どころは、狂言回し役の 「手品師」 ヨハン・ファイファーだろう。浦井健治さんが演じている。
「黒いピーターパン」 と言えばいいかな。そんないでたちで、道化師アルルカンのように白く塗った顔。緑色の髪。
皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが追い詰められてともに命を絶つあとも、ヨハン・ファイファーは箱抜けをしながら軽やかに歌って花びらを散らす。
一昨年から昨年の帝劇 「マリー・アントワネット」 で闇に点る光と苦悩を演じ闘った笹本玲奈さんは、「ルドルフ」 ではありのままに花を咲かせてくれている。
明朗で芯のつよい令嬢マリー・ヴェッツェラをうつくしい笑みとゆたかな表情で演じていて、笹本玲奈さんの魅力がそのまま輝く舞台になった。
笹本 生きることをあんなに謳歌してる女の子がルドルフと一緒に死のうと思うまでの気持ちの流れをつかむのが難しいんですよね。≫
かわいいだけではなく、運命的出会いの波濤に身を投じることを選ぶ心の強さが、とても自然なかたちで彼女のからだ全体から立ち上ってくるようだった。
皇帝フランツ・ヨーゼフ (壤 晴彦 じょう・はるひこ) と首相ターフェ (岡幸二郎) のふたりが、世の体制というものを体現して重く立ちはだかり、舞台はきしみルドルフとマリーを追い詰める。
ルドルフ (井上芳雄) の専属御者ブラットフィッシュ (三谷六九 みたに・ろっく) のやさしい眼差しゆえだろう。
時代に変化を求める民衆の姿は、「マリー・アントワネット」 や 「レ・ミゼラブル」 の民衆ではなく、まぎれもなく19世紀末の民衆だった。
帝劇ロビーで、「ルドルフ」 世界初演のハンガリー版のCDを売っているかと期待したのだが、残念ながら売っていなかった。
一見して無表情の悪役ダンヴァース夫人(シルビア・グラブさんが名演)の目もと口もとがストーリーを語っているのも見逃さなかった。
とくに第1幕最後に高みに立って 「レベ〜ッカ〜」 を歌うシルビアさんの、してやったりという笑みを無表情の膜が覆う容子(ようす)は、名役者ここにあり。
歌い演ずる山口祐一郎さん、前回観たときは歌詞の意味への思いが勝ちすぎたのか、ことばがときに音符を離れて浮遊していた。
5月14日の夜の部では、曲とことばと思いがしっくりひとつになって、マキシム・ド・ウィンター氏の扮装の向こうに魔王が見えました。
第2幕にマキシムから秘密を告白されたあと、存在すべてがマキシムへの深い愛に満たされたときに生まれる強さ。
CDを聴いてあらためてシルヴェスター・リーヴァイの世界、闇から歌い迫ってくるちからに酔ってしまった。
そんな思い込みがあるものだから、第1幕、普段着の貴公子としてごく普通の話劇がつづくと、まるで楽屋に戻ってうろうろしている山口祐一郎さんを見ているような変な気分だった。
音符のかたちをして駆けてゆく馬をあちらこちらへ自在にあやつって疾走する御者、山口祐一郎さんの喉以外に、この歌をのせることはできない。
メロディーに忠実なドイツ語版もいいが、山口節は何度も何度も聴きたい。おっと、公演は6月末まで続くぞ。
いまは亡きレベッカ・ド・ウィンターの冷たい嘲笑が意味する真相を知ったとき、マキシム・ド・ウィンターが再婚の相手として迎えた「わたし」の愛は、かぎりなく深くゆるぎないものとなる。
その対極にいる 「わたし」 を演じる大塚ちひろさんは、ぼくにとっては 「ダンス オブ ヴァンパイア」 でお風呂好きの娘サラを演じていただいて以来です。
細かいところまで神経の行き届いた石川 禅さんの所作を見ていると、第1幕のマキシム・ド・ウィンターは禅さんで見たかった……と発作的に思う。
第2幕のもうひとつ見せ場のナンバーは、マキシム・ド・ウィンターのとんでもない敵役(かたきやく)、ジャック・ファヴェルが歌う 「持ちつ持たれつ」。
演ずるのは 「ダンス オブ ヴァンパイア」 でホモ吸血鬼のヘルベルトを歌い踊ってバカウケした吉野圭吾さん。
上演が、奥行きがある割りに横幅が狭く天井も低いシアター・クリエで、音響レベルをあまり上げられなかった。
1100回の公演とはどういうことか。上演記録を見て、昭和44年のさいしょの公演の共演者の名にあっと驚いた。
その憧憬する宿屋の女 「想い姫」 アルドンサ役が、草笛光子さん、浜木綿子さん、西尾恵美子さんのトリプル・キャストだった。
相方が草笛さんから松たか子さんへ一世代以上の交代をしながら、主役は同じひとが続けているとは、思っただけでぞくぞくする。
このミュージカルのドン・キホーテは、教会をおとしめたかどで牢に囚われた作家セルバンテスが劇中劇として演じるという趣向。
駒田さんは、最初にお会いしたのが「ダンス オブ ヴァンパイア」の異形(いぎょう)の せむし男姿 ; そのあと「レ・ミゼラブル」 で曲者(くせもの)のテナルディエ ; 「タン・ビエットの唄」でようやく素顔を見せていただいた役者さん。
今回、上條恒彦(かみじょう・つねひこ)さんが予定されていながら、咽頭部にポリープがみつかり切除手術のために降板となった。
代わって演じられた瑳川哲朗(さがわ・てつろう)さんもよかったけれど、劇が進むにつれて、上條さんがこれを演じたらどんな遊びを入れて楽しませてくれるだろう、どんな渋さが出るだろう……と思いが飛んだ。
今回の上演、何に惹かれたといって、ドン・キホーテが、あばずれの(でも美しい)女を 「想い姫」 として崇めるその姿。
廃材や やぶれトタン板の散らかる現場で「めぞん一刻」の世界が広がったかのような宣伝ビラの写真を見てください。
ウェイターたちが軽やかに踊りながらドカン、またドカンと、大皿盛りの煮込みや大串焼きを置いてゆくのでした(これ、比喩)。
マクシム・ゴーリキーの原作の社会批評的な部分を削ぎ落とすいっぽう、登場人物どうしがもっと互いに絡み合うように書き込んでいったのだそうで
その代わり、ケラさんが岸田國士(きしだ・くにお)の一幕劇を巧みに連鎖コラージュした戯曲『犬は鎖につなぐべからず』(白水社)を買いました。
薄倖のヒロインの典型と思われたナターシャは、第2幕後半の山場で人間関係をひっくり返す存在に変身する。
シャネルの芳しい香水が、突然に黒煙を上げて燃え、香ばしい残り香はやがて降りしきる雪に洗われてゆくのだ。
ヒトラーの迫害からの逃避行途上のユダヤ人6千名に「敦賀上陸、滞在10日間」のビザを与えるため在リトアニア領事館でペンを走らせ続けた外交官、杉原千畝(ちうね)。
今(こん)拓哉さん、彩輝(あやき)なおさん、泉見(いずみ)洋平さんなどミュージカル俳優の一流どころが起用されていて、安心して見ていられた。
杉原千畝役はロック界の吉川晃司さんが演じたが、たとえていえば鹿賀丈史さんの真摯が皮膚の奥まで沁み込んだような出来映え。
≪稽古を進めていたある日、吉川「千畝」の中に正義の光が宿った。キャストもスタッフも、その場に居合わせた誰もが泣いた。
ダンスホールの男たちのやりとりからやがて、なぜ杉原千畝が「命のビザ」の発給のために文字通り自らの命もかけたのか? という問いかけが提示される。
よくある手なのかもしれないが、日本・ドイツ・ソ連をそれぞれ、あでやかな女性たちに擬人して演じさせ歴史の流れを語らせたのもうまかった。
という歌詞は安っぽいが、6〜7名の軍服姿に能面をつけさせスローモーションで腕を動かす演出は効果的で、支持したい。
杉原千畝を演じる吉川晃司さんが最初に登場するのは、顔を帽子で隠したままポーランド人のエージェントと密談する場面。
いい出来だったが、いわばシルヴェスター・リーヴァイの名作「マリー・アントワネット」をやや平板にしたような。
会場では主な俳優さんのサイン入りの台本を売っていて、わたしは彩輝なおさん(写真は演劇パンフレットから)のサイン入りのを買った。
主役かつ集客力の中心となった女優扮する「青年に化けた姫」といい、道化役の庭師といい、オーヴァーアクションがすぎてまるでファミリー・ミュージカルだ。
シモネタもあるからご家族で見るわけにはいかないオトナ向けコメディーだが、どう匙加減を間違えてこうなったのか。
さすがにヴェテランの藤木孝さんと杜(もり)けあきさんが脇を固めて、とくに第2幕には鑑賞に堪えるしみじみしたナンバーもあった。
主演の女優はときに音程がはずれ、声質がじゃじゃ馬のように落ちることがあった。帝劇ならアンサンブルにも加われまい。
音楽会と思って会場へ行ったら、開演5分前のオーケストラピットの練習音を延々1時間聞かされ「これぞ現代音楽でござい」と言われ、木戸銭5千円は戻ってこなかった。
公演の最初と最後に舞台を深いふかい呼吸の音で満たし、ホモ・サピエンスが出しうる風(かぜ)の音の美しさを発見させてくれたのは収穫だった。
振付の勅使河原三郎(てしがわら・さぶろう)氏は、少女少年の好き勝手な動きから何かあたらしい価値が創造されると期待したのだろうか。
様式美を拒否し 「十代でなければできない」「未知なる物への挑戦」に期待しようという、オトナの側の頭でっかちな思い込み。
その犠牲にされた少女少年たちは、けっきょくオトナから示唆された定型以上のものを何ら生み出さず(あたりまえだ!)、身体は凡庸な動きに終始した。
それでも、これがたとえば現代美術館の展示の一角での特別パフォーマンスとして5分間にまとめられていたら、ぼくはたぶん賞賛したと思う。
賞賛も批判も勅使河原三郎さんが一身に負うべきもので、終演後の13名の少女少年への拍手はおしまなかったが、せめて舞台で礼をするときの頭の下げ方の角度くらい指導してやれなかったものか。
舞台を両側から挟んで見下ろすかたちで客席がしつらえられ、中央奥には螺旋階段。役者はそこから上り下りして2階壁際の周回通路を行列する。
男優16名、女優11名の群集劇。しかもそれぞれの役者さんにかなり均等にセリフが割り当てられていて、にぎやかだ。
群衆劇でありながら、それぞれが露国の武器商人であったりエスキモー(イヌイット)であったり印度の女帝であったり、キャラが鮮明で、まるで『星の王子さま』が遍歴する小惑星の主たちが一堂に集まって収拾がつかなくなったかのようなカオスが展開する。
世界史のおさらいにはじまり、危難を逃れる方舟の旅は幽界から天上まで巡り、物質文明の現代をパロディーして終わる。
マヤコフスキーの原作(大正7年作)を演出の木内宏昌さんが大幅に書き換えた台本。マヤコフスキーの註に、時代に合わせて脚色しつつ上演してほしいとあるのだと。
原作と比べて楽しむところまでゆけば、きっとこたえられない面白さなのだろうけど、木内宏昌作品を聴くかぎりにおいてはセリフに観念的単語が多すぎて感興が高まらなかった。
公演前にロビー脇で行われるパフォーマンスの、二十五絃筝を奏でる かりん さんと、揺れ謡う玉井夕海さんとは、いつかいっしょにイベントをしたい。)
「ベガーズ・オペラ」は去年DVDを買って第1幕を見たところで、どうも乗れなくて棚に戻したままになっていた。
DVDの編集が欲張りすぎて、ばらばらに展開する乞食役者たちの気まぐれをこま切れに場面転換しながら追っているものだから、実際の舞台の雰囲気を知らない者はなかなか興が乗らない。
『シアター・ガイド』4月号が「ベガーズ・オペラ」を特集していて、笹本玲奈さん、森公美子(くみこ)さん、島田歌穂(かほ)さんの鼎談が載っている。
笹本: (慌てて)いえ、経験ないですけど! 昨日読んだ小説にそんなふうなことが書いてあったんですよ(笑)。歌穂さんはどうですか?
舞台を見終わって、DVDも全部見終わって、あらためてこれを読むと、楽屋話と舞台の役者さんたちが不思議に重なり合っておもしろい。
それぞれの役者さんがいったん乞食になってから劇中劇の役作りに取り組むという2段階を経ることで舞台に深みが加わった。
やはり舞台セットの位置関係が頭に入っていないと、場面転換の多いDVD画像にはなかなかついていけない。
舞台をご覧になれなかった方は、まず特典画像の「舞台セット潜入レポート」で劇場の三次元を脳内に再現してから本篇をご覧になるとよいかと思います。
DVDで見る2年前の化粧は、黒い線で深い皺をかき「爬虫類ふう」だったのが、今回は顔一面を青白く塗り冥界から迷い出た凄まじさ。

 

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