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[ 485] 小飼弾から若きアルファギーク予備軍たちへの愛情こもった本 - My Life Between Silicon Valley and Japan
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20080508/p3
ギーク (geek) とは、アメリカの俗語で卓越した知識があるということを指す。特に、ある種の趣味には長けているが、人付き合いが得意でない人に対して用いられる。そもそも良い意味では使われなかったが、インターネットが注目されるようになると共に、コンピュータやインターネット技術に時間を費やし、深い知識を有する者もギークと呼ばれるようになった。(p3-4) この本は、小飼弾が、内外のアルファギークたちに会って対話を続けた記録であるが、弾がこの対話を通して、読者(若きアルファギーク予備軍たち=対話が連載されていた「WEB+DB PRESS」誌の読者)に本当に伝えたかったことは、アルファギークという生き方の厳しさだったのではないかと思う。 語源に侮蔑的な意味を持ち、「人付き合いが得意でない」、つまり社会性が欠如している、という意味をも併せ持つ「ギーク」という生き方は、とてもリスクが高い。凡庸にその生き方を追い求めるだけでは「ただのバカ」で終わる可能性も高いのだ。そうならず「尊敬すべきバカ」になるのは本当に大変なんだよ。でもそんな大変な道を歩んだ先にあるのは、とても素晴らしい生き方だ。弾はこう考えているのだと思う。 厳しさ、そして素晴らしさ。その両面の真実を、きちんと後輩たちに伝えたいという弾の気持ちが、本書の対話の随所にあらわれている。 弾 エンジニアとしてだけ優れていればいいのかっていう問題が、まず一つありますよね。刀鍛冶は刀だけ作っていればいいのかと。今後はある意味すごく厳しくなってきて、刀だけではなくて、作戦のことまでわからなければ、まともな給料を得られなくなるんじゃないかと。一所懸命刀を作ってました、でも、これからは鉄砲の時代ですって言ったときに、刀これだけ作りましたから、お金くださいって言ったからって、お金くれないわけですよね。何が売れるのかというよりも、どんなニーズがあるのかというのがわかっているエンジニアでないとこれからはキツイなと。 きたみ エンジニアとして、生きていく。単にアルファギークとして新し物好きなだけではいけないと。 少なくともソフトウェアの世界では、一生ものの技術なんてないのだと。せいぜいアルゴリズムとかだけれども、それも誰か一番腕の立つ人がライブラリーにして公開しちゃったら、「もうあんたお飯の食い上げだよ」と。極論してしまうと、そのことに関して、一番通じている人がたった1人だけいればいいというのがソフトウェアの世界の厳しい現実でもあります。(p216) 僕が見るところ隙間はいっぱいあるんです。何でみんな、同じところにたかるのか。(中略) バカかと。だから、すいません、そういう人には同情できません。そういう人たちは、中国人やインド人にリプレースされるのは当然です。彼らだって、食っていく権利があるんだから。(p217-218) 僕は「技術技術」と声高に言う人には、あまり良い印象を持っていない・・・というか、反射的に身構えてしまうところがあります。というのも、そういう人に限って「好きなことをやらせろ」論が強く、そのためにお膳立てする土壌作りを他人に丸投げして知ったこっちゃなかったりするケースが多々あるからです。 弾さんとの会話の中には、そうした「技術屋という言葉を免罪符にする」ところがまるでありませんでした。すみません、この点で僕は弾さんを少し誤解していたような気がします。(p219) 弾の風貌、スタイル、ブログでの言葉遣いなどから、きたみと同じような誤解をしている人も多々いるのではないかと思うが、本書の弾は、色々な意味で、とてもバランスが取れている。 と自らについて語る弾の持ち味は、じつは本書の中にはあまり現れない。アルファギークたちと彼が交わす対話は、とても真摯でストレートなものなのだ。 そしてそれは、「ギーク」という生き方の厳しさと素晴らしさの両面を、何とか後輩たちに誤解なきよう伝えたい、という弾の愛情ゆえのものと思われる。 あれくらいの長い年月を費やさなければ、これくらいの作品は書けないのだということが、また、この喜びを味わうための四十数年の助走であったということが実感された。(日経新聞4/20/08) ぶっ飛んだ小説を、原始的で、呪術的で、異常なまでの吸引力を秘め、それでいながら格調の高い大叙事詩のごとき長編小説を無性に書きたくなった。膨大な資料を読みあさりはじめたのが二年ほど前だった。そして、昨年の暮れに千三百枚を脱稿した。(日経新聞4/20/08) 日本が最も日本らしく、底抜けに自由で、生き生きとしていた室町時代を背景に、かの有名な「日月山水図」の屏風絵と、それを描いた作者が不詳であることを想像の起爆剤に用い、極めて大胆な発想によって、小説の原点とも言うべきめくるめく物語を構築し、かつてどの書き手も為し得なかった形式と、漢語と大和言葉との融和を図る文体を存分に駆使しなければならない、新境地だった。六十代に入ってまもなく、今ならそれが書けるという自信を得た。(日経新聞4/20/08) 四十代後半に狙いをつけた長編小説があった。テーマも構想も充分だったが、敢えて書かなかった。なぜなら、その大空を飛翔するだけの翼の力が具わっていないという自覚があったからだ。(日経新聞4/20/08) 「塞翁が馬」という故事がある。(略) このように人生の吉兆や禍福は簡単には定めがたいことを、述べたものである。私の場合もその通りで、当座は不運と見えたものが長い目でみると、むしろ幸運だったと思う場合が少くない。この年まで生きながらえると、人生は最後まで勝負の決まらないマラソンのようだとつくづく思う。(日経新聞5/1/08) 私は五十歳近くなって物書きになった。終列車の最後尾の車輌に飛び乗って、やっと間にあったという思いであったが、それも、考えようによっては、不利とばかりはいえなかった。(略) 柳田の弟子たちの間には、柳田批判を許さない雰囲気があった。(略) しかし時は氏神である。(略) その頃になると、柳田の威を借りた弟子たちの力もおとろえ、黙殺されることなく、かえって賞賛される始末であった。(日経新聞5/1/08) 才能を磨かず、才能を育てずして、注文のまま書きつづけていると、けっして卵や雛以上には成長せず、時間の問題で朽ち果ててしまうのは自明の理である。(日経新聞4/20/08) こんな手はいけないという心理的なくびきがなくなり、新手に挑む気風が将棋界に広がっている。もう出ないと思っても新戦法は現れる。将棋は奥が深い。(日経新聞4/8/08) タイトル戦を見て、これはいい手、これは悪い手、あーだこうだと言うのは楽しいのですが、集中度、真剣度が違う対局者の読みに勝てないことはわかっているので、虚しさも感じます。「負ける」という恐怖がある対局時と、気楽な観戦時では考える手や、感じ方が全然違ってくるので、仮に実戦より優る手を見つけたところで、あまり意味を持ちません。(渡辺明ブログ3/28/08) 国際的なコミュニケーションで大事なのは、意味がある言葉を話せるかということである。この基礎は母国語のなかでどれだけ「意味の含有率」が高い言葉を構成できるか、という能力にかかっている。(日経3/25/08) 序盤から読み合って、その都度折り合って、シーソーの水平を保っていたが、ここで均衡が崩れてしまった。水面下の押し引きで、時間も気力も体力も少しずつ削られ、正直バテた。藤井さんを含め、上位棋士の真の強さはこういう部分にあると思う。(日経3/19/08) 昨日の将棋、試しにボナンザ先生にお伺いをしたら、僕が間違えた局面2つで、先生はピタリと正解手を示されました。昨年3月の凄腕コンピューターではなく、家庭用パソコンでの先生の読みに負けているようでは、楽観うんぬんという問題ではないかもしれません。(渡辺明ブログ3/22/08) 険しさ自体に変わりはないが、その中にドラマティックな場面が出てきたりする。そういう意味では楽しいという感じがする。将棋は5、6手進んだだけで、思ってもみなかった展開に変わったりする。その面白さはずっと変わらずある。(将棋世界2008年3月号) 以前、数学者という職業の人は周囲の人から「大変ですね」と言われてもピンとこない、何故なら当人にとってそれは遊んでいるにすぎないから、という話を聞いたことがあるんですよ。それって少し羽生さんに通じるものがあるなと思いました。羽生さんも考えること自体が楽しくて仕方ないのではないか、と。(将棋世界2008年3月号) 数学的に可能な局面をすべて並べて、片っ端から形勢判断をしてくれと言われたら、かなりの確率で答えられると思いますよ。(中略) でもそれをわかっているとは言わないでしょうから。全然わかっていない局面でどのくらいわかっているのかと問われたら、全然わかっていないのかもしれない。局面自体を把握できれば、正解も見つけられると思うんですけど・・・。羅針盤がきくかどうかというのは、ものすごく大きいんですよね (将棋世界2008年3月号) 先入観をもたない、ということです。(中略) 先入観をもたないで見るのは、なかなか難しいんですよ。先入観をもってみるほうが簡単だし、楽だし、しかも効率がいいんです。でも、先入観をもたないということは、一番大切なことだと思っています。(中略) それは逆に、年齢を重ねれば重ねるほど難しくなります。邪魔するものがいっぱい出てきますから (将棋世界2008年3月号) (羽生マジックについて) 私自身がどうこうということではなく、将棋は”最後までわからない”ということが大きいのではないかと思います。終わりに向かって可能性が小さくなるゲームでは逆転は少ないでしょうけど、将棋は、常に可能性は低くならない。その意味で、将棋には”最後までわからない”という要素がふんだんに含まれています。だから、私がやっているからということではなく、将棋はそういうゲームなんだ、ということだと思います。たとえば囲碁は、終わりに向かって可能性が低くなります。(将棋世界2008年3月号) |
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